松本白鸚さんの言葉 今をあなどるなかれ(井上芳雄)
第36回
井上芳雄です。今年もよろしくお願いします。2018年12月14日に『レジェンド・オブ・ミュージカル in クリエ』の第3回を催しました。ミュージカル界のレジェンドをお迎えして、日本のミュージカル創生期の話を、僕がホストとしてうかがう企画です。今回は松本白鸚さんに来ていただきました。白鸚さんは「役者はなんでもやる必要はないけれど、プロの役者ならなんでもできないといけない」とよくおっしゃっています。僕は、その言葉が好きで、同じような心構えでやらせてもらってきました。当日は、ほかにも心に残る言葉がたくさんありました。
白鸚さんは歌舞伎だけではなく、ミュージカル、現代演劇、映画、テレビドラマと、演劇でも映像でも、あらゆることをやられています。ミュージカルは1965年の『王様と私』日本初演で主役を演じて以来、『心を繋ぐ6ペンス』『屋根の上のヴァイオリン弾き』『ラ・マンチャの男』『スウィーニー・トッド』といった作品に出られ、歌舞伎俳優としての名声を極めながら、日本のミュージカル界をけん引されてきました。
今年10月には『ラ・マンチャの男』の再演が決まっていて、実に半世紀にわたり1200回以上演じられています。1970年には、その『ラ・マンチャの男』で27歳のときに日本人として初めて米国のブロードウェイに招かれて主演を果たしました。また、1990~91年には英国のウェストエンドで『王様と私』に主演されています。
本当にいろんなことを経験されているのですが、きっかけは「すべて縁だった」と言います。ミュージカルを始めたのも勧められたからだし、ブロードウェイやウェストエンドの話も向こうから来たもの。断ることもできたけど、そうはせずに新しい世界に飛び込んでいった。その積み重ねの上に、今の自分があるのだと。
だから「今が一番好き。歌舞伎という伝統の世界にいながら、やっぱり確かなものは今なんです」とおっしゃってました。その言葉からは、今、自分がやるべきことをしっかりやってきたという自信が感じられました。
お話をうかがって思ったのは、自分に課しているハードルがすごく高いということ。「(いろんなことをやってきたのに対して)チャレンジャーと言われるとどうもアマチュアぽく感じられてしっくりこない。チャレンジャーで終わらずにプロフェッショナルになりたい。アルチザン、つまり職人と言われたい。役者は『手に芸をつける』のだ」と言われました。日々、相当厳しく鍛錬されていることが伝わってきます。
それで思い出したのが、娘の松たか子さんです。舞台でご一緒したことがあるのですが、けいこのときから力を抜かないんです。そんなに声を出さないでいいですよというけいこでも、ずっと全力。すると周りは、あの松さんがあれだけ一生懸命やるなら、自分も手を抜けないと思います。僕も松さんの姿勢を見て、自分もそうありたいと思い、今に至るまでけいこ場ではそういう気持ちで臨んでいます。
松さんに話を聞いたら、ある日けいこに白鸚さんが来られて、本気でやっていないとすごく怒られたことがあるそうです。それで、常に全力で取り組むようにしているのだと言っていました。松さんは白鸚さんから学び、僕はそんな松さんからすごく影響を受けました。これも白鸚さんの言う、ご縁だったのかなと思います。
■「日本の役者は本当にうまいんだよ」
毎回ゲストの方には、「日本から世界に出て行けるオリジナルのミュージカルをつくるにはどうすればいいのか」という質問をお聞きしています。白鸚さんは「そんなこと、考えたことがないです」と答えました。理由は「今までやり続けてきたことが、明日の舞台につながっているのだから」。そして「今はもしかしたら、素晴らしいときではないかもしれない。過程の途中と感じるかもしれない。嫌なことがあるときかもしれない。でも、今が大事なんです。僕は、今がどんなときでも愛おしい。今をあなどるなかれ、です」とも。
トークショーが終わったあと、乾杯をしてお話しさせていただいたとき、白鸚さんは「日本の役者は本当にうまいんだよ」と何回もおっしゃっていました。繊細な感情表現ができるんだと。それがすごく印象に残っています。ブロードウェイやウェストエンドの舞台に実際に立たれた白鸚さんに、そう言っていただけるのは嬉しいし、説得力がありました。
僕にもブロードウェイの舞台に立ってみたいという夢があります。それも、今いる場所でがんばっていれば、及ばぬことでもないのかな、という思いを抱きました。勇気づけられる言葉でした。
1979年7月6日生まれ。福岡県出身。東京藝術大学音楽学部声楽科卒業。大学在学中の2000年に、ミュージカル『エリザベート』の皇太子ルドルフ役でデビュー。以降、ミュージカル、ストレートプレイの舞台を中心に活躍。CD制作、コンサートなどの音楽活動にも取り組む一方、テレビ、映画など映像にも活動の幅を広げている。著書に『ミュージカル俳優という仕事』(日経BP社)。1月5~27日まで、主演するミュージカル『ナターシャ・ピエール・アンド・ザ・グレート・コメット・オブ・1812』(東京芸術劇場プレイハウス)が上演中。
「井上芳雄 エンタメ通信」は毎月第1、第3土曜に掲載。第37回は1月19日(土)の予定です。
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