ゲームデザイナー・堀井雄二さん 放任主義は信頼の証
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はゲームデザイナーの堀井雄二さんだ。
――兵庫県洲本市の出身ですね。
「祖父は農家の六男坊で、中心商店街に出てきてげたの店を始めたのですが、『これからはガラス』と、数年後にガラスの店に転じました。父の代になって、『これからはアルミサッシ』とアルミサッシを売り始めました。高校時代はよくサッシを作るのを手伝いました」
「5歳上の兄が店を継ぎましたから、僕は漫画家を志しました。高校3年生の夏休みに作品を持って東京に出て、漫画家の先生を回りましたがいい返事はもらえず大学に進学。大学では漫画研究会に入りました。いざとなれば家に戻って店を手伝えばいいと思い、就職はせずにフリーライターをしているうちにゲームの世界に入りました」
――両親から就職するよう言われなかったのですか。
「うちは放任主義でした。父は『ライターなどは長く続ける仕事ではないから、早く帰ってきて家を手伝いなさい』と言うこともありました。でも開発に携わった『ドラゴンクエスト3(ドラクエ3)』の発売日に列ができ、社会現象として報道されるようになってからは『帰ってこい』と言わなくなりました」
――お母さんはおっとりした方だったとか。
「僕が小さい頃は母も店番で忙しく、食事の世話などは祖母がしてくれました。母は僕が寝坊をして学校に行くのが遅れても『まだおったのか』と驚くだけ。ある日、寝坊しているのをみてまずいと思ったのか『風邪をひいたので休みます』と学校に電話したんです。ところが僕はそれを知らずに学校に行き『休みじゃなかったのか』と言われたこともあります」
「中学の時、雨が急に降ってよその家の子には親が傘を持って迎えに来てくれたのにうちはだれも来てくれなかった。つい怒って母の大事なたんすをげんこつで割ってしまいました。さすがに怒られるかと思ったら『けがしなかった?』と心配されました」
――ゲームデザイナーとして仕事が軌道に乗ってからはいかがでしたか。
「父は僕に直接は何も言わなかったのですが、母から、父が周りに自慢していると聞きました。発明好きで、80歳を過ぎてもいくつも特許を申請していました。爪が周りに飛ばない爪切りなどを発明して『会社で売ってくれ』などと言っていましたが、僕は『そんなものはもう世の中にある』といって取り合いませんでしたけどね。92歳で亡くなるまで、とても元気でした」
「母はドラクエはできないのですが携帯ゲーム機を買ってあげたら、脳トレのゲームをすごいスピードでやっていました。最近、少し記憶が衰えてきました。母がうるさく言わなかったのは、僕のことを信じて、見守り続けてくれていたからだと思います」
[日本経済新聞夕刊2018年12月25日付]
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