遺伝子解読でオーダーメード 精密医療の最前線
体や遺伝子が人によって違うなら、医療も人に合わせて行えればいい――こんな世界が間近に迫っている。ナショナル ジオグラフィック2019年1月号「あなたに合わせた次世代の医療」では、DNA解析やデータ解析技術の進歩で、がんや心臓病のリスクを予測し、最適な治療や予防が選べる精密医療の今をレポートしている。
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従来の医療では大多数の人に効果がある治療法が推奨され、薬が処方されるが、それが個々の患者に合うかどうかは分からない。精密医療はこの定式を覆す。その前提には、人間は分子レベルで一人ひとり異なる特徴をもち、そうした個人の特徴が健康に驚くほど大きな影響を及ぼしている、という認識がある。
世界中の研究者が、10年前には想像もできなかったような技術を次々に開発している。DNAの高速解析、組織工学、ゲノム編集などだ。ゆくゆくは科学技術の進歩で、がんや心臓病をはじめ、無数の疾患のリスクを、その兆候が表れる何年も前に予測できるようになるだろう。将来的には受精卵の遺伝子を改変して、遺伝性疾患を撲滅できるかもしれない。大いに希望をもつか、深い懸念を抱くかは見方によりけりだが。
最近では、極めて厄介ながんにオーダーメードの治療を施す研究も進む。2018年春、免疫療法のパイオニアである米国立がん研究所のスティーブン・ローゼンバーグ率いるチームが、患者自身の免疫細胞にがんを攻撃させる実験的な治療で、劇的な回復を遂げた事例を報告した。チームは転移性乳がんの患者、ジュディ・パーキンズの腫瘍のDNAを解析して、変異を特定。さらに腫瘍浸潤リンパ球(TIL)と呼ばれる免疫細胞も採取し、腫瘍の遺伝子変異を認識するTILを選んで培養、何百億個にも増やして、パーキンズの体内に戻した。併せて免疫チェックポイント阻害剤のペンブロリズマブも投与した。治療から2年以上たった今、彼女にはがんの兆候はまったく見られない。
言うまでもなく、たった一つの成功例で医療に革命を起こせるわけではない。現にローゼンバーグの臨床試験に参加したほかの2人の患者は死亡した。「小さな明かりが一つともっただけです」とローゼンバーグは言う。「もっとたくさんともらなければ、免疫系の制御に必要なデータは得られません」。大きな変化を巻き起こすのは、この治療そのものではなく、治療から見えてきた精密医療の可能性なのだろう。個々の患者の体内でがん細胞を増殖させる遺伝子の特異的な変異が、がん治療の鍵を握っているのかもしれない。
30年前には、遺伝子の暗号を解読することや、ヒトゲノム(ヒトの全遺伝情報)を構成する32億の塩基対の配列をすべて明らかにすることなど不可能だと思われていたと、腫瘍学者のラゼル・カーズロックは言う。「そんなことは絶対にできっこないといわれていました。ところが2003年に不可能が可能になったのです」
ヒトゲノム計画で判明した人体の個人差
6カ国の科学者が参加し、一つのゲノムの塩基配列をすべて解読するヒトゲノム計画には、13年の歳月と1000億円以上の資金が費やされた。今や解読コストは10万円余り。最新型の機器を使えば、たった1日で結果が出る。この技術に生体分子の高度な解析を組み合わせれば、一人ひとりの体を独特なものにしている多様な特徴が明らかになる。
こうした個人差が詳しく分かってくるにつれて、従来の医療が大ざっぱなものに思えてくる。たとえば、この症状にはこの薬という処方の仕方。米食品医薬品局は、広く処方されている薬のなかに、特定の遺伝子変異がある人には効かない可能性がある薬がおよそ100種あると報告している。
この問題は命にも関わる。たとえば、クロピドグレル硫酸塩という薬は、心臓発作を起こした患者に抗血栓薬として日常的に投与されている。だが、米国の人口の約25%は、この薬を活性化するために必要な酵素をつくれない遺伝子変異をもっている。米メリーランド大学で遺伝学を研究するアラン・シュルディナー教授は、こうした患者にこの薬が処方されれば、発作が再発するか、最初の発作が起きてから1年以内に死ぬ確率が2倍になると報告している。
10年以内にはすべての人の医療記録にDNAの解析データが加わるようになると、多くの専門家は予測する。ゲノム解析とデータ駆動型医療への転換は、予想もつかないほど医療のあり方を変えるだろう。将来的には、大量のデータから何歳頃にどんな病気にかかるかを予測できるようになるかもしれない。
未来の医療をのぞいてみるには、遺伝学者のマイケル・スナイダーの研究が良い例になる。米スタンフォード大学のゲノム学・個別化医療センターを率いる63歳のスナイダーは過去9年間、自分の体内の分子や生理機能の指標を追跡してきた。
スナイダー率いるチームは、彼のDNAの解析結果を考慮に入れながら、日々記録される測定値を分析している。日常的に採取する血液や尿、便の検査結果、常に装着している生体センサーで測定したデータなどだ。さらに、遺伝子の発現、タンパク質と代謝物質、そして、心拍数や皮膚の温度、血中酸素といった生理機能の値も記録する。スナイダーはMRI(磁気共鳴画像法)や心エコーなどの検査も受け、臓器、筋肉、骨密度の変化を調べている。
スナイダーは、症状が出る前のできるだけ早い段階で病気の兆候を察知するシステムにこの研究を応用したいと考えている。自ら実験台になったのは、これだけ多くの検査や測定をやり通す人間はほかにいないと思ったからだ。
4年前、体調は悪くなかったが、スナイダーの装着したセンサーが感染症の兆候を察知した。発熱した段階で、彼はマダニが媒介するライム病を疑った。標準的な検査でその直感の正しさが証明されたときには、すでに抗生物質による治療を終えていた。
さらに、2型糖尿病の発症も観察することになった。彼は甘いものを断ち、サイクリングの距離を2倍に増やし、週に4回6キロを走ることにした。何を食べると血糖値が上がるかを調べ、好物の肉料理も控えた。おかげで9カ月ほどたつと、血糖値は正常に戻った。
遺伝情報のビックデータ化
ゲノムの塩基配列でいえば、人はみな99%以上同じ。一人ひとりの違いを生み出しているのは、多種多様な遺伝子変異だ。大きな領域にわたる変異から、DNAを構成するヌクレオチドが一つだけ置き換わったものまで、これまでに6億6500万の変異が特定されている。
そのうちどれが無害な変わり種で、どれが健康を脅かすものだろう。
それを識別する試みがいかに困難か、米バンダービルト大学の研究チームが行った実験で判明した。チームは2022人のゲノムを解析し、不整脈との関連がわかっている二つの遺伝子で、122のまれな変異を特定。そのデータを三つの分析機関に渡し、不整脈を引き起こす変異を特定するよう依頼した。ある機関は16、別の機関は24、もう一つの機関は17タイプの変異を選んだ。三つの機関が一致して選んだのは4タイプだけだった。さらに、研究チームが三つの機関の分析で不整脈のリスクがあると判定された人の医療記録を調べたところ、実際に不整脈があった人はほぼ皆無だった。
DNAの暗号を読み解くには、長期にわたる膨大な研究が必要になる。リスクをもたらす変異はまれにしか現れないし、関連した疾患の発症までに何年もかかることがあるからだ。米国立衛生研究所は、100万人のDNAデータと健康情報を収集し、精密医療研究を推進する計画を最近発表した。アラブ首長国連邦のドバイの衛生当局は、300万人の住民のゲノム情報を入れたデータベースを構築する計画だ。
こうした大規模な研究の先陣を切っているのはUKバイオバンクだ。英国中部のストックポートにある幅7メートル、高さ6メートルの大規模な冷凍施設に、40~69歳の英国人ボランティア50万人の血液や尿、唾液のサンプルが保管されている。小さな容器に入れ、トレーに積み重ねて、個人を特定できないようバーコードの標識をつけた1000万本の検体だ。
バイオバンクのコンピューターは参加者の健康記録と結ばれている。遺伝子変異を個人の特徴や病気と結びつけて初めて、DNAから手がかりを引き出せるからだ。「本人にとっては不幸なことながら、長期的には全員が有益な情報をもたらしてくれます」とバイオバンクの責任者を務めるローリー・コリンズは言う。
(文 フラン・スミス、写真 クレイグ・カトラー、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック日本版 2019年1月号の記事を再構成]
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