歌手・元ちとせさん 島唄、始めたきっかけは母
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は歌手の元ちとせさんだ。
――生まれ育った奄美大島はどんな所ですか。
「小学校の全校生徒は4人だけという小さな集落で生まれ育ちました。自然が多く、幼いころは畑を走りまわっていました。田舎なので、自分たちが暮らしている所で命をいただくという生活。父とは山に行ったり川に行ったり。山にわなを仕掛けて、イノシシやヤギを狩る。それを家でさばいていました。私も手伝い、子どもながらに命を大切にすることを学びました」
――島唄を始めるきっかけになったのはお母さん。
「母は島唄が好きでした。私も幼いころから母が働いていた機織り工場でおばあちゃんたちが歌っているのを聞いていました。私が三味線を触ったのをみて母が習ってみないかと勧めてくれました。三味線教室に行くと、楽譜がない。唄を覚えないと弾ける曲が増えていかないので唄を覚え始めました」
「島唄は歌詞の中に親や先輩からの教えがあります。アルバムに入っている『くるだんど節』を私が最初に習った時は『親が教えてくれること、一言残らずむねに染めなさい!』という歌詞でした。島唄から多くのことを学んだと思います」
――個性的なご両親とか。
「母は『激鬼母』ですね。一度も嫌いになったことはないけれど、とにかく褒めない。今まで歌ってきて2回しか褒められたことはないです。高校の時の新人賞と大会で優勝した時だけですね。調子に乗るな、といつも言われています。父はのんびりマイペース。冬の東京での初めてのライブに両親を誘ったら『寒いからやだ』と断られました。寒くて死んじゃうかもしれないから行けないって。両親らしいと思いました。とても面白かったです」
――高校卒業後、奄美大島を離れて生活することに。
「島から出るつもりはなかったのですが、母に島の外に出て何か学んでこいと言われ大阪に行きました。その後高校時代にスカウトされたレコード会社とご縁があり、歌手になることを決めました。両親は言い出したら聞かないという私の性格をわかってくれていたみたい。デビュー前に本気でやるのかとだけ聞かれたのを覚えています」
――2児の母。「ありがとう」と「ごめんなさい」を言おうと教えているとか。
「私は小学生のころ機織りをしていた母にいたずらをしたことがあります。その時素直に謝れず、1週間ぐらい後悔して。言えた後はすごくすっきりしたので、それだけは言いなさいと子どもに言い聞かせています」
――両親にこれからどんな歌を聴かせたいですか。
「いい歌ですね。楽しく自分の歌と向き合いながら歌っている姿を見てもらいたい。それが一番の親孝行だと考えています」
[日本経済新聞夕刊2018年12月18日付]
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