流動的関係や中途半端な親切心… 米国人の人付き合いに衝撃
アメリカ南部奮闘記(4)
こんにちは。日本は今、リンゴが旬な時期でしょうか。私の住む米レキシントンはいよいよ寒くなってきています。
今回は、皆さんに是非知っていただきたいグリークライフというシステムについて書きます。グリークライフってなに?と思われる方は多いと思います。日本では馴染みのない単語ですが、アメリカの一部、特に南部の大学ではとても盛んな学生組織です。組織構造は、男女別にそれぞれ幾つかのグループに別れており、グループ内の同士を男女それぞれブラザー、シスターと呼びます。自分のブラザー、シスターたちとは、入部出願活動や、寮生活、その他いろんな親睦活動などによって固い絆で結ばれる事となるのが、一応、建前です。
グリークライフはソロリティとフラタニティで構成されており、ソロリティは女性のみの団体、フラタニティは男性のみの団体です。私の学校にはソロリティが6つあり、フラタニティは約10存在します。
外国人に閉鎖的なグリークライフ
グリークライフの詳細に入る前に、まず皆さんに知ってもらいたい語彙を紹介します。
ラッシュ
ソロリティ・フラタニティのメンバーと、ご飯・パーティー等を通して親睦を深め、特に気が合うソロリティ・フラタニティのメンバーとさらなる親交を築いていくこと
プレッジ
特定のソロリティ、フラタニティに入部するため一定のミッション(先輩の雑用や出される難題をこなすこと)をクリアすること
ソロリティのラッシュは1週間と期間が限定され、期間外は激しい勧誘活動を制限されます。対して、フラタニティは1学期から1年生をフラタニティが所有するハウスへ招待したり、ご飯へ招いたりと勧誘し放題です。
ソロリティ、フラタニティの先輩メンバーに好かれるには一定のステータスが必要です。特にブロンドヘアの持ち主であったり、容姿端麗であったり、文武両道であったり、親がその特定のソロリティ・フラタニティの出身であったり、基準は様々です。入部後のメンバー間の親睦活動やパーティーの開催などで勉強との両立がなかなか難しいグリークライフですが、ワシントンアンドリー大学の加入率はなんと8割です。周りのグリークな友達が一体どうやって基準をクリアし、勉強と両立しているのか私は常に不思議なのですが答えはいまだに分かりません。
具体的に、グリークライフって何が楽しいのか、疑問に思われる方もおられると思います。フラタニティは特に大学のコミュニティ内の社交場となるパーティーを数多く主催する側であり、これによって学生のフラタニティへの依存も部分的に説明できます。また、フラタニティはそれぞれハウスを所有しており、2年生のメンバーたちはそこで共に1年間暮らし、またパーティーの開催もハウスでの催し物になります。
ソロリティはというと、フラタニティと同様、ハウスを所有しており、2年生のメンバーは1年間同じ屋根の下で過ごします。ソロリティ単体でパーティーを開催することはありませんが、特定のフラタニティと非公開のパーティー(これをミキサーと呼びます)を行うことはよくあります。また、慈善活動も部活の一環です。
ステータスを象徴
日本のような「合コン」システムがない代わり、ミキサーが出会いのきっかけをもうけているのでしょうか。ミキサーは社会的ステータスが見合うソロリティ・フラタニティ同士で行われます。
ステータスと書きましたが、グリークライフは一定の社会基準を設け、それに見合わない生徒をはじいていくシステムです。年会費も高額なため、ローンを組まないと参加できない生徒もおり、経済的にも一定の「基準」をみたさないと参加が困難な活動です。
高い部費を払ったにもかかわらず入部後に部内の活動に顔を出さない、名義上だけのメンバーもたくさんいます。「グリークライフに携わっている」というブランドを欲しいからです。なぜでしょう?
一部のソロリティ・フラタニティの社会的地位が高いなど部はランク付けされています。この風潮は裕福な白人層によって培われた社交文化の副産物に他なりません。物質的な豊かさを追求したアメリカの白人の富裕層の子孫たちは今もこの精神を受け継ぎ、この後もさらに彼らの子供へ伝承することでしょう。
グリークライフは特に人種差別の促進・多様性の否定に直接つながる一大要因です。リベラルアーツ教育にいかにも相反する体制を今も取り除くことができない裏には以下のような原因が考えられます。
・特定のソロリティ・フラタニティの卒業生からの寄付金が絶える懸念があること
・グリークライフのために受験をする生徒を失う可能性があること
・グリークライフの人口が未だに多く、急な根絶が困難なこと
このようなグリークライフの存在がアメリカの人種的分断につながっているのは明らかです。有色人種の多くはグリークライフの基準を満たさないため、入部が困難であることから、人数は極めて少ないといえます。
基準によって、学生たちは画一化されます。ワシントンアンドリー大学はキャンパスを見渡す限り、同じような服装をした女子生徒・男子生徒であふれかえり、時には友達を見分けるのに一苦労です。
必要なときだけの「友人」
表面的要素を重視するアメリカ南部で、私は過去2年間、人間関係に悩まされ続けてきました。とても誠実で、情熱的にみえるアメリカ人達は一体私という日本人をどこまで受け入れ、真摯に向き合ってくれているのか時々自問自答にすることがあります。
日本で中高をともに過ごした親友たちはいまでもアメリカでの愚痴を聞いてくれます。本当に問題があったとき、彼らはいつも寄り添ってくれました。高校を卒業してからも連絡を取り合っています。私の問題を自分の問題のようにいつも相談に乗ってくれていました。私はこのような関係性をワシントンアンドリー大学の学友と築けているのか、大学2年までは自信がまったくありませんでした。
しかし、ようやく今年に入ってサバイバルのコツを掴んできた気がします。アメリカでの人間関係は非常に流動的で、「その時に一番自分のためになる人間と仲良くする」、というやり方が主流に思えます。去年は仲良くても今年は必要がないために疎遠になったりすることがあります。
一方、日本では「末長いお付き合い」を大事にする傾向があります。私はこれに慣れてしまったからゆえに最初のころはアメリカで苦労したのでしょう。
アメリカ人は「誠実的に振る舞う」ことにこだわりをもっています。誰かが困っているとき、私のアメリカ人の知人たちはとりあえず心配し、相談にのりますが、いざ、実際に行動が求められると、何かと理由をつけて手助けをなかなかしてくれません。3年目になってようやくこの独特な「中途半端な親切心」に気付くことができたのだと思います。
日本ではこのような対応をあまり見かけたことがありません。たいていの場合、本当に助けてくれる知人しか私の問題の相談には乗ってくれません。「中途半端な親切」は誰にもよくないとみんな分かっているからです。
少し話が変わりますが、ワシントンアンドリー大学にはスピーキングトラディションという 「挨拶の伝統」があります。校内で誰かを見かけたら必ず挨拶をする、という慣習です。「調子はどう?」と聞き、「いいですよ」と答えるのが暗黙の了解です。表面上の挨拶をこうして我々生徒は日々強いられ、自分がいかなる状態であっても必ず「いいですよ」と答えます。
スピーキングトラディションを含め、グリークライフ、「中途半端な親切心」、「目先の友人関係」は私にとっては衝撃的でした。しかし、いずれもアメリカの現実であり、むしろそれこそがアメリカらしさであると実感しています。
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