フリーアナウンサー・渡辺真理さん 理論派だった父
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はフリーアナウンサーの渡辺真理さんだ。
――お父さんにとって遅いお子さんだった。
「41歳の時の子で、とてもかわいがってくれました。赤ん坊の頃も、親戚に抱き癖がつくと心配されるぐらい。『たかだが2年ぐらい、抱き癖がついてもいいじゃないか』と言っていたそうです」
「乗馬や水泳、スキー、社交ダンスと趣味の多い父親でした。社交ダンスは全日本大会にも出たとか。スキーや水泳は小さい頃よく特訓されました。本人はスキーが一番好きで、冬休みや春休みは毎年家族でスキー旅行。温泉や観光の記憶がありません」
――教育方針は。
「祖父の代からの商人で、金銭感覚がしっかりしていました。電気や水は公共の物だから無駄遣いしてはいけないと言われて育ちました。私が就職後に外食をごちそうしても、レシートは全部チェックしていました」
「スポーツ理論の本を壁一面に並ぶほど持っていて、小学生相手の指導も理論的。スキーでは、斜面とけんかしないようエッジングは最小限に、とか。車の運転で教わった『どうしようと思った時こそ冷静になりなさい』という言葉は、仕事や人生で大変な時に思い出します」
――進路のアドバイスは。
「自分の半生を振り返ると、ほぼ事後報告でした。アナウンサーになることを決めた時の反応も正直、あまり覚えていません。『聞かれれば意見は言うけど、決めるのは真理だから』というスタンスは一貫していました」
「大学進学の際は"論争"になりました。私は国文学を学びたい。自分の父から商店を継いだ父は、一人娘に経済や経営を勉強してほしい。結局、学科の枠を越えて専門科目が履修できる国際基督教大学(ICU)なら、経済や経営も学べて単位にもなると説明、納得してもらいました」
――ご健在なのですか。
「私がフリーになった1998年の暮れ、脳内出血で倒れて入院。病室に泊まり込む母の食事の手配や洗濯を私がすることになりました。夜中に帰宅、午前中に家事を済ませ、昼食時にお弁当を持って病室に寄ってから、夕方に出社する毎日。車で出勤できるフリーでなければ生活が成立しなかったので幸運でした」
「2000年からは自宅に移り、16年間の療養生活の末、14年の結婚記念日を母と過ごした翌日に他界しました。チョコレートが大好きで、誰もとらないのに、ベッドサイドに隠していた父でしたが、お通夜はバレンタインデー。スキーができるぐらいの大雪の中の旅立ちでした」
「倒れる直前に白内障の手術の話もあり、目もあまり見えていなかったかもしれませんが、私の声には必ず反応してくれました。老いというものを見せることで、親として最後まで教えをくれたのだと感謝しています」
[日本経済新聞夕刊2018年12月4日付]
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