俳優・秋野暢子さん 母の生死決断、人生のとじ方意識
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は俳優の秋野暢子さんだ。
――2017年1月、60歳になったのを契機に一般財団法人日本尊厳死協会(東京・文京)の会員になりました。
「会員になってすぐ娘に『病気で回復の見込みがなくなったら延命治療をしないでほしい』と伝えました。会員になったのは母がそうだったからです。母は1977年、60歳になって入会しました。介護や看病で私と兄に負担や迷惑をかけたくないと思ったのでしょう。でも当時、尊厳死という言葉は一般に知られておらず、私は母が会員になった意味をよく理解できませんでした。会員証にはもしもの時、尊厳死を判断する人を記入するようになっています。母は私の名前を書きました」
――お母さんはどういう人でしたか。
「おしゃれな人でした。いつも化粧と髪の手入れを欠かさず、晩年に入院した時も看護師から『顔色が分からないので化粧はやめてください』と注意されていました。大正生まれの人らしく礼儀作法にもこだわっていましたね。父には敬語を使っていました」
「私が15歳からテレビドラマやお芝居に出ていたので、俳優を職業に志したとき両親はすんなり受け入れてくれました。ただ20歳で上京した時、母は私のことを心配して1カ月のうち3週間を東京で私と暮らしました。残りの1週間が父のいる大阪です。父は私が23歳の時に亡くなったので、それ以降は私と同居です。仲のいい母娘でした。母のために仕事を頑張って都内に一戸建てを建てたんですよ」
――そんな親子にも別れが訪れます。
「母が78歳の時です。腎臓を患いさらに肺炎にかかり入院。まもなく危篤状態になりました。私が仕事場から駆けつけると、私は医師から『延命治療をしますか』と問われました。当時、38歳の私は待合ルームに行き30分間、必死に考えたと思います。その心の内はうまく説明できません。悩んだ末、母の気持ちを大事にしたいので断りました。それから30分後、母はろうそくの火が消えるように息を引き取りました」
――運命の1時間でした。
「母の死後、20年くらい折に触れて心が乱れました。『母の生死を私が決めてしまった。これで良かったのだろうか』『たとえ管につながれて胃瘻(いろう)になっても命をつなぐべきだったのではないか』と自問自答しました。でも年を重ねた今は、私が娘を思いやるように、母も私のことを思い、人生の閉じ方を決めていたのだと思い至りました」
「あの1時間を体験し、そして協会に入り人生の最期を意識することで毎日を大事に生きようという気持ちが強くなりました。充実した日々を送ってきたので安らかに旅立つのが私の望みです。娘の名前を記した会員証は財布に入れて持ち歩いています」
[日本経済新聞夕刊2018年11月27日付]
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