ぴあ 矢内広社長情報誌に始まり、チケット販売からコンサートなどの興行主催までエンターテインメント事業を拡大させてきたぴあ。ただ、矢内広社長(68)は株式上場後も「ぴあは利益を追求するだけの会社ではない」と創業の理念にこだわってきたという。その大切さに気付いたのは、社員の小さな「反乱」からだった。(前回の記事は「危機で知った『任せて任せず』 ぴあ社長のくじけぬ魂」)
■企業理念を明確にするのは社長の責任
――出版もチケットも好調だった1990年代前半、現場の社員が反旗を翻すようなことがあったそうですね。
「95年に、デジタル化が急速に進むなかで『21世紀のぴあのビジョンを考える』という社内プロジェクトを立ち上げました。私から冒頭に目的を説明すると、ある社員が『目的はわかりました。でも社長が考えるようには実現しないと思います』と言うのです。どういうことかと驚きました」
「理由を聞いてみると、『今のぴあには昔のような熱気やチャレンジ精神が薄れている。いくら良い戦略を考えても、実行するのは社員だから実現しない』という。すると他の社員も『隣の部署が何をしているのかわからない』など、会社が病んでいる実態を次々と勇気を持って発言してくれました」
――すでに大企業病の兆候があったということですか。
「そうですね。72年の創業以来ずっと前を向いて走り続けていましたが、後ろを振り返ると、ほとんどの人がついてこられなくなっていたことに気付かされました。その場でプロジェクトの目的を変え、なぜチャレンジ精神を失ってしまったのか、どうやったら取り戻せるのかを考えるプロジェクトにしたのです」
「まずは企業理念をつくるべきだという話になりました。私は正直、『いやいや、ちょっと待って』と思っていました。なぜかというと、毛筆で書かれた社是が額縁に入れられて壁に高々と飾られて、朝礼で社員が唱和するみたいな会社にだけはしたくないと思ってきたからです」
「しかし事業が多角化し、メンバーも部署も増えていくなかで、社員が何をよりどころにして仕事をしていいのかわからなくなってきていた。その原因は、企業理念が明確になっていないからであり、それは社長の責任だと、はっきり言われました」
■ぴあは世に出られなかった会社という思い
――矢内さん自身はどんな会社にしたいと思ってきたのですか。
「『ぴあ』は大学生のときに立ち上げた雑誌ですが、本当は世に出られなかったという思いが根底にあります。雑誌のアイデアは良かったのですが、学生ですから流通のことなんてわからなかった。わらにもすがる思いで直談判した紀伊国屋書店の田辺茂一社長が教文館の中村義治社長を紹介して下さり、中村社長が100件以上の書店に宛てた紹介状を書いてくださった」
社員に教わることばかりだと話す「初対面の一学生がこんなことまでしてもらっていいのだろうかと、その手紙の束を持ったときに足ががくがくと震えたことを今でも覚えています。つまり、ぴあという会社は何もないところから幸運な出合いによって生み出された会社です。私にとってぴあは“授かり物”なのです。会社というのは利益を出して当たり前ですが、それだけじゃないという思いがずっとあります」
――そうした思いが社員には伝わっていなかったということでしょうか。
「私自身は創業からの様々な出会いや経験から、社会があって自分たちがある、社会に役立って初めて自分たちの存在意義があると考えてきました。しかし、社員には伝えきれていなかった」
――どんな企業理念ができたのですか。
「社員は私のインタビュー記事の切り抜きなどを回し読みして、社長は何を考えてきたのかをひもとくところから始めたようで、まとめるまで2年ほどかかりました。利益はしっかりと追いつつ、社会への貢献という考え方も持つという2つを車の両輪として前へ進む会社でありたいとの思いを『ぴあアイデンティティ』という企業理念の形にまとめました」
「さらに『ひとりひとりが生き生きと』という言葉をメインのアイデンティティーとして設定しました。ぴあの顧客に対して、人生が豊かになって生き生きとできるような商品やサービスを提供できて喜んでもらえれば、我々自身が生き生きとできるという意味です。そのための行動指針として、私心を捨て、利他の精神を持って、物事の本質を見つけられるようにする、といったことを『ぴあ人』として定義しました」
――社内には浸透しましたか。
「社員に教わることばかりですが、企業理念を小冊子にした後に、『これができて配ったら終わりじゃなくて、まず社員と直接会話をしてほしい。そうしないと浸透しないですよ』とプロジェクトメンバーに言われました。それから1年ぐらいかけて全社員と語り合う懇談の場『PI(ぴあアイデンティティ)サロン』を始めました。10~20人のグループごとに、弁当を食べながら話して、終わったら近所の居酒屋に行ったりして、一気に距離が縮まりました」
「企業理念というぶれない軸をつくったことが、業容が変わるなかで必要なことでした。インターネット対応や雑誌『ぴあ』の休刊など、会社の業容の変化とともに組織のあり方も変わりますが、そのときにぶれない軸を持っていたから今があると思っています」
――人事制度にも反映されているのでしょうか。
「現場での職能評価制度や採用でも基準になっています。『ぴあ人』を定義しましたが、そういう気持ちで熱意を持って仕事に当たれているか。技能スキルが上がっていくと同時に、意識のレベルも上がっていかないといけない。目線を上げて仕事に対応してほしいと考えています」
――若手の映画監督を発掘する目的で77年に始めた「ぴあフィルムフェスティバル(PFF)」を続けるのも、そうした企業理念を映していますね。
■経営危機でも続けたフィルムフェスティバル
「ぴあフィルムフェスティバル」の前身である「ぴあ展」(写真は第2回、最前列左から2番目が矢内氏)=ぴあ提供「2008年の経営危機の際、PFFは収益を生み出さないので、赤字になった会社では当然やめるべきではないかという議論になりました。しかし、こうした事業は一度やめたら二度と再開できないですし、ぴあがずっと続けてきた意味合いを考えて、予算を半分に縮小したとしても続けるべきだと社内を説得しました」
「我々のビジネスは、人々が文化に触れる機会をつくり、文化を消費することで成り立っています。これに対し、PFFは映画界の新しい才能の発見と育成、文化の創造なんですね。ぴあが目標とする、顧客の人生を豊かにすることのためにはその両方が必要です。会社のあり方そのものが、もしPFFをやめたら変わってしまうんじゃないかと危惧したのです」
――かつてPFFができなくなるという理由で上場を断ったことがあるそうですね。
「チケット事業を始めた80年代に、証券会社の人が次々に来て上場しましょうといわれました。『PFFは利益を生まないけど続けられますか』と聞いたら、みんな口をそろえて、『上場するということは1円でも多く利益を出して株主に還元することなので、それは無理です』という答え。ですから当時は考え方が合わないので上場しませんでした」
「00年前後にまたチケットのシステムを新しくしようと思っていたので再び上場を検討したのですが、そのときには証券会社担当者のPFFに対する見方ががらりと変わっていて驚きました。『今は企業も社会貢献や文化活動が求められる時代になっています。これだけ長期間継続して、安定的な評価を得られているものは続けてもらった方がいい』と異口同音に言うわけですよ。時代は変わったなと思いましたね」
――文化を担うという使命感が強いですね。
「昔、本で読んで感動したのですが、経営学者のピーター・ドラッカーは『利益から物事を考えるのは間違いだ』とはっきり言っています。新しい価値の創造が利益を生み出すと。社会全体としては多く利益を出して株主還元することが一番正しいという傾向がどんどん強まっていくように感じていましたが、本当にそうなのかということを私はずっと思っていました」
「ぴあは世の中の人に支えられている会社なので、社会の公器として存在すべきだろうと、私は自分の経験から思っています。ですから、ステークホルダーで一番大切にすべきはユーザー、続いて取引先、従業員、地域社会ときて、5番目に株主だと株主総会でも話しています。人々が喜んでくれて初めて事業が大きくなり、利益が出て配当に回せる。その順番だと私は思っています」
――昨年、社員に譲渡制限付き株式を無償で配布しました。どんな意図があったのでしょうか。
「役員だけでなく社員にも、会社を支える意識を改めて持ってほしいと思い導入しました。それまで、ぴあの株価がいくらなのか聞かれても即答できる人間はほとんどいなかったのですが、導入したことで社員が株価に関心を持ち始めた。そればかりとは言えないですが、株価はみんなで頑張った結果でもある。そういう感覚を持ってくれるようになったと思います」
矢内広
1973年中央大法卒。在学中の72年に雑誌「ぴあ」を創刊し、74年にぴあ株式会社を設立、社長に就任。84年にチケット流通事業に参入。2003年、東証1部上場。福島県いわき市出身。
(安田亜紀代)
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