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日テレキャスター 40代仕事の転機と親の看病越えて

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NIKKEI STYLE

日経ウーマンオンライン

日本テレビの報道番組「news every.」でキャスターを務める小西美穂さんは、40代以降も、目の前に立ちはだかるいくつもの壁に向き合ってきた。小西さんが「暗黒時代」と名付けている時期には、仕事でうまく成果が出せずもがき苦しんでいた時期と、親の闘病が重なったという。仕事の大きな転機と大切な家族の闘病・看病。小西さんはどう両立し、どう向き合い、どう乗り越えたのか。

――女性が働き続けることが当たり前になってきた今の時代、私たちが直面している新たな問題が、仕事をしながら、親の介護や家族との死別とどう向き合い、どう乗り越えていくかというテーマです。小西さんは、「仕事が過酷だった時期に、母親の看病も重なった」とお聞きしました。その時のお気持ちや状況をお話しいただけますか?

そうですね。この話は私にとってもまだ消化し切れていない部分も多く、とても私的な内容になりますが、これからその時期を迎える方に伝えられることもあるかもしれませんので、少しお話ししますね。

肉親が病に倒れたり、急にこの世を去ったりする現実は、誰にでも起こり得ることです。しかも多くの場合、親の看病や介護、死別と正面から向き合う時期が、キャリアの踏ん張り時と重なるのではないかと思います。私の場合は、30代半ばに父を、40代半ばに母を亡くしました。

いつでも会えると思っていた家族との突然の別れ

実は、私は3人きょうだいの末っ子で、小さい頃からお父さん子だったんです。 ロンドン特派員の任期を終えて帰国して3カ月ほどたった2004年9月27日夜、私は総理官邸にいました。第二次小泉改造内閣が発足し、赤じゅうたんが敷かれた階段に、ずらりと閣僚が並ぶシーンを、まさにその現場で取材していたのです。なぜかその時、「父に電話しようかな」という思いが一瞬、頭をよぎったのですが、仕事中だからと、携帯電話をしまったのを覚えています。

同じ頃、実家で小泉首相の会見をテレビで見ていた父は、「ここに美穂もいるのかなぁ」と言っていたそうです。父が突然倒れて、病院で息を引き取ったと連絡が入ったのは、その日の夜遅くのことでした。

駆け付けた実家の洗面台には、きのうまで父が使っていたひげそりが置かれたままで、そったばかりの細かいヒゲが残っていました。ずっと一緒に過ごせると思っていたはずの父が突然亡くなるという現実を私は受け止められず、声を上げて泣きました。いつでも会えると信じていた父の急逝という経験は、以後の私の仕事の姿勢に強く影響したと思っています。

――どのような影響が?

記者として、不慮の事故や事件、災害で、突然大切な人を失う悲しみや喪失感については、何度も取材をして、原稿で書いてきたことでした。けれど、いざ自分がその立場になると、言葉では言い表せないほど、気持ちが混乱していました。

当事者の心の痛みは、その人にしか分からないものです。以来、私は人のつらさに寄り添う取材をするときは、それまで以上に細心の注意を払い、理解をしたような口ぶりで話すまい、と肝に銘じています。普段のコミュニケーションにおいても同じです。

母との別れは、2014年2月。悪性リンパ腫(がんの一種)で他界しました。

前年5月に、原因不明の発熱で地元の病院に入院したものの、なかなか病名が分からず、悪性リンパ腫と分かった時には、既にステージ4に進行していました。母はホスピスで最期を迎えましたが、病が発覚してから約9カ月間は、闘病生活が続きました。

仕事の大きな転機と母の闘病が重なったとき

――そして、この時期は仕事上の「踏ん張り時」でもあったのですね。

そうなんです。毎週月曜夜22時からのBS日テレ「ニッポンの大疑問α」と、毎週土曜日の「ズームイン!! サタデー」に出演する傍ら、秋から始まる新番組「深層NEWS」のメインキャスターとして、番組の立ち上げ準備も同時に進める多忙な日々で、とても大きなプロジェクトの渦中に私はいました。仕事上では極めてハードな時期と、故郷の神戸で闘病する母を見舞う時期が重なってしまいました。

――仕事と看病の両立。実際に、どんな生活を送っていたのでしょうか?

土曜の朝に、「ズームイン!! サタデー」の生放送が終わると空港に急ぎ、神戸に向かい、翌日曜の最終便で東京に戻る。そんな生活を、ほぼ毎週、続けていました。

「どうしてこんな時に……」と、ただただ、無念な気持ちが募るばかりでした。

娘として、病床の母のそばにずっとついていてあげられない。キャリアはぐんぐんと開いているのに、最愛の母の命は閉じようとしている。そのギャップを、自分の中でどのように消化したらいいのか分からず、もがいていました。この年の夏は、意識のない母のもとに毎週末通った記憶しかありません。

母は一時回復はしましたが、意思疎通ができない状態が長く続いていました。その間、私は週末ごとに母に付き添いながら、「母の前では絶対に泣くまい」と決めていました。「娘の私が泣くと、生きるために頑張っている母に伝わってしまう。一番つらいのは母だ」と思ったからです。

「思い切り泣いていい場所」をつくる

最終便の時間ギリギリまで母のそばにいて、「また来週来るね」と笑顔で手を振り、病室を後にします。病院の夜間来客用出口を出ると、駅までつながる200メートルくらいの通路があります。人通りもまばらなこの場所で、私はいつも、思いっ切り泣いていました。病床の母を残して帰らなければいけない罪悪感を、そこで吐き出していたのです。今から思えば、毎週日曜の夜、病院から駅までのあの200メートルの通路が、私にとっては、気持ちを切り替える場所だったのかもしれません。

我慢せずに泣きじゃくった後は、涙を拭いて空港に向かい、仕事の世界に入っていく。大事な儀式のようでもありました。

肉親が病に倒れた時、気丈に振る舞うことのつらさに押し潰されそうになる人はきっといると思います。「ここでは思い切り泣いていい」。そんな自分だけの場所をつくるといいかもしれませんね。心置きなく感情を吐露できる場所があれば、多少は気持ちが落ち着くかもしれませんから。少なくとも、私は思い切り泣ける場所があったから、気持ちを切り替えることができていました。

――思い切り感情を吐き出せる場所をつくっておくこと。当時の小西さんを支えた出来事は、他にもありますか?

東京に戻って、尊敬する女優の宮本信子さんに、自分の境遇を電話で相談したことがありました。宮本さんは、私が20年ほど前に制作した大平光代弁護士のドキュメンタリー番組で、ナレーションを引き受けてくださり、それ以来のご縁です。

宮本さんは、私の気持ちをすべて受け止めて、穏やかな声でこうおっしゃいました。「耳はね、最後まで聞こえるのよ。だから話し掛けてあげて」。「そうか。母は、反応はないけれど、きっと私の声が聞こえている」と思えて、力が湧いてきました。それから宮本さんは、こう続けたのです。

「でもね、美穂ちゃん。人間、いつかはバイバイよ」

達観した宮本さんの死生観を聞いて、ハッとしました。誰とだって、別れは訪れる。母とも、いつかはバイバイなのだと。覚悟と勇気を同時に与えてくださった、あの時の宮本さんの優しい声は、今でも忘れられません。

仕事の仲間に母の闘病について打ち明けなかった理由

――職場で一緒に番組制作をしている皆さんには、事情を伝えていたのでしょうか?

いえ、番組のスタッフや共演者には、ほとんど話すことができませんでした。その頃の私は、母ががんだと知られずに仕事をしていたかったのです。回復の見込みがない病状を口にすること自体がつらかったし、事情を打ち明けられた人だって、どう声を掛けていいか分からないだろう。そんな心境でしたね。

ただし、これはあくまで私がそうだったというだけであって、つらい状況を隠すことが美徳だとは思いません。もしも周囲に伝えるほうが仕事がうまく回るなら、私もそうしたと思います。この頃の私はとにかく「深層NEWS」の初代メインキャスターとしての力量不足にもがいていたので、看病と両立していると同僚に打ち明けることが、「仕事ができない理由」を家族の事情に置き換えてしまうようで嫌だったのです。こういうところに、変な負けん気が出てしまうのですね。

それに、事情をなにも知らない人ばかりがいる環境に身を置いて仕事をすることが、私にとっての救いにもなっていました。気を使われ、配慮されたいとも思いませんでしたし、遠慮なくいただく指摘や指導を乗り越えて放送に臨むほうが、私はよかったのです。

――あえて職場では気持ちを切り替えて仕事に打ち込める環境を維持したということですね。

というより、看病をしているという事情に関係なく、プロとしての仕事をやり切りたい気持ちが強かったのだと思います。そして時々、放送を見た事情を知らない友人から「美穂ちゃん、今日の番組、見たよ。面白かったよ」と言ってもらえる。それだけで「頑張ってよかった」と思えました。

どうしても看病でのつらい気持ちを吐き出したくなったときには、元気だった頃の母の姿を知っている同僚にメールで打ち明けていました。

その同僚はワシントン赴任中だったため、直接お見舞いに来ることはありません。つらい思いだけを聞いてもらったり、母が意識がある時に「病室でこんな冗談を言ったんだよ」とメールに書いて「お母さんらしいね」と返してもらうことで、私は少しラクになっていました。

職場で事情を分かってくれる人は、誰か一人でもいい

がんと闘う人がこれだけ多い時代ですから、このコラムを読んでくださっている方の中にも、親の介護、看病と向き合っている方はいらっしゃると思います。あるいは、周りで働く上司や同僚、部下の方が、実は苦悩を悟られまいと歯を食いしばって、ギリギリのところで働いているのかもしれません。想像力を働かせて周りの人と接することが大切なのだと、改めて感じています。

――なるほど。当時の経験が、小西さんが仲間に向けて働かせる想像力も高めているのですね。職場にあえて告げない、という方法を選んでいる人も確かに少なくないかもしれません。

ただし、緊急の状況に備えるためにも、誰か一人には事情を説明しておくほうがいいと思います。

私の場合も、直属の上司である部長にだけは事情を伝えていました。この上司は、番組制作の現場には直接関わりませんが、欠員が出たときの采配にすぐ動いてくださる立場の方です。

母が亡くなったという知らせを聞いた日、私は翌日も番組に出演する予定でしたが、一晩眠ることができなかったんです。その部長に母の死を伝えたところ、「出演しなくていい」という判断が返ってきました。「こういう時のために前々から話を聞いていたんだから。人繰りはなんとかするから、行ってきなさい」と。彼の配慮によって、私は神戸に向かい、母を見送ることができました。

これから看病や介護を経験するかもしれない皆さんに伝えられることは、職場の中で事情を理解してくれる人に話をしておくことも大切だ、ということです。先に書いたように、全員に打ち明ける必要はありません。けれど、いざというときに人員補充の「キュー出し」ができる立場の人には、一人だけでいいので事情を説明しておくといいと思います。直属の上司が理想ですが、どうしても話をしにくい場合は、近い部署の関係者でもいいのではないでしょうか。本当に余裕がない時は、なかなか気が回らなくなりますが、私は結果的に、大いに救われました。

――平常心を保ちにくい事情を抱えているときでも、仕事に向き合い続けるためのアドバイスはありますか?

私の場合は、「料理」が役立ちました。

――料理? 意外なお答えですね。

一向に回復の兆しが見えない母の看病を続けながら、仕事もうまくいかないことの連続で心がすさみかけていた日常の中で、気持ちをリセットさせるルーティンになっていた時間。それが、料理だったのです。

つらい時期を支えた毎日のルーティン「料理」

介護や看病、さらに仕事に忙殺されると、一人で無心になれる時間がほとんどなくなりますが、私にとって料理は、「無心になれる時間」であり、「着実に進歩を感じられる時間」になっていました。当時の私は夜の番組に出演していたので、毎日午後に出社していたんですね。生放送を終えて帰宅するのは深夜になるため、平日は夫と夕食を共にすることができませんでした。ですから、朝一番にスーパーに行って、出社前に夫の夕食を作り置きして、冷蔵庫に入れておくことにしたのです。

当時の私は完全な料理のビギナー。レパートリーといえば、「お好み焼き」くらい(笑)。料理番組を録画して、見よう見まねで作ることから始めました。特にお世話になったのは、料理研究家の小林カツ代さんのレシピ。カツ代さんの朗らかな性格と、家庭のぬくもりにあふれる献立が大好きになって、著書を何冊も買っては、目次の順に作っていきました。

献立は肉じゃがや焼きそば、ナポリタン、オムライスなど、ごくごくシンプルなものばかり。余裕のない日は簡易調味料を使っていためるだけ、ということもありましたよ。あ、今、当時のメモを見返すと、かなり「焼きそば」の率が高いですね(笑)。たまに「オムそば」の日もありますが……。それでも、お好み焼きだけしか作れなかった頃から比べると、格段の進歩です!(笑)

みそ汁の味が少し引き締まっておいしくなった。片手で卵を割れるようになった……そんなささやかな、「昨日より今日」の前進を、料理に見いだすことができたのです。

――着実に進歩できるなにか、を求めて行動し、それが当時の小西さんの救いになっていたのですね。

ただ、毎日料理をする。たったこれだけのことだけれど、できない尽くしだった私にとっては、「やれば形になる」という料理のクリエーティビティーと、「おいしかったよ」となんでもよろこんで食べてくれる夫の笑顔に、心から救われていました。

肉親の死に直面すると、日常は無機質、無彩色になってしまいます。当時着ていた洋服は、黒やグレーの暗い色ばかり。週に3回も4回も同じ服を着回すこともざらでした。新しい服に挑戦したり、鮮やかな色を身にまとったりする心のエネルギーがなかったからです。

それでも料理をしていると、色とりどりの野菜を前に、季節の変化を感じられました。1日1時間、台所で過ごすごくわずかな時間が、この頃の私には気持ちの切り替えになっていたのです。日常を取り戻すための時間を、自然と求めていたのだと思います。

私の場合は料理でしたが、部屋の模様替えやランニング、人それぞれ、アプローチは違うでしょうね。ささやかでもいいから進歩を感じられるルーティンを作ることは、つらい時にこそ効いてくるような気がします。

今日は少し重たい話もしましたが、誰もが迎えることになるその時期に向けての心の備えとして受け止めていただけるとうれしいです。

小西美穂
日本テレビ解説委員・キャスター。1969年生まれ。読売テレビに入社し、大阪で社会部記者を経験後、2001年からロンドン特派員に。帰国後、政治部記者を経て日本テレビ入社。BS日テレ「深層NEWS」ではメインキャスターを約3年半務め、現在は報道番組「news every.」でニュースを分かりやすく解説。関西出身の親しみやすい人柄で支持を集める。新著の「小西美穂の七転び八起き」(日経BP社)では、自身の仕事とプライベートの転機、キャリアの行き詰まりからの脱出法などをリアルに書き、多くの働く女性から大きな共感を呼んでいる。インスタアカウントはmihokonishi69

(ライター 宮本恵理子、写真 稲垣純也)

[nikkei WOMAN Online 2018年10月16日付記事を再構成]

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