加藤登紀子 ヤマ当たった東大受験「合格はまぐれ」
編集委員 小林明
『赤い風船』『ひとり寝の子守唄』などのヒット曲で知られるシンガーソングライターの加藤登紀子さん(74)がレコードデビューしたのは1966年。東京大学文学部に在学中のことだ。都立駒場高校からのストレート合格。「東大生歌手」としてメディアの話題をさらったが、受験直前までの模試では散々たる結果が続き、「まさか現役で受かるとは思っていなかった」という。
安保闘争、クラブ活動、文化祭、演劇……。青春を謳歌するなかで、登紀子さんはどうやって超難関の東大現役合格という夢をかなえたのか? 受験体験を振り返ってもらった。
京都から東京へ転校、あだ名は「インファンシー」
――どんな環境で育ったんですか。
「父は満鉄の社員で、私は満州のハルビン生まれ。敗戦後、母の実家の京都に引き揚げ、その後、復員してきた父と合流。私は京都の小学校、中学校へと進み、中1の夏に父の仕事の関係で東京・世田谷の桜木中学に転入することになりました。そこでカルチャーショックを受けたんです」
「まずは方言の悩み。おっとりした京都弁は周囲とテンポが合わず、恥ずかしがり屋の私はすっかり無口になってしまった。おまけに東京の中学生は社交的で活発だから気後れして、いつもボーッとしている。だから、学校で付いたあだ名がインファンシー(infancy=幼児期)でした」
――勉強はどうでしたか。
「衝撃だったのが最初に受けた9月の学力テスト。授業の進度が違うせいか、出題内容がまったく分からず、得意だった数学で初めて0点を取ったんです。当時、京都は中学生を伸び伸びと過ごさせるのが教育方針で、試験勉強であくせくする雰囲気がなかった。だから東京と京都では明らかに学力に差があった。しばらくは学校に通うのも嫌になっていました」
初めて学力テストで0点、浪人生の兄と一緒に勉強に専念
――どうやって克服したんですか。
「自宅で6学年上の兄、幹雄(一橋大学卒、旧住友金属工業=現新日鉄住金・元副社長)と同じ部屋を使っていたんです。兄は京都大学に落ちた浪人生でいつも机に向かってガリ勉していた。4畳半の狭い部屋。兄の机の隣で一緒に勉強することになり、0点を取ったショックもあったので、よく勉強していましたね」
「気がついたら、成績が良くなり、級長にもなり、中2の時には卒業式で送辞、中3の時は答辞を読むようになっていた。高校受験も楽勝。都立駒場高校に合格したときの成績はトップだったらしいです」
1年後輩の吉永小百合さん、アナウンス部長として指導
――高校で1年後輩には女優の吉永小百合さんがいたそうですね。
「私は学校放送の駒場放送局に入り、高2でアナウンス部長になり、朝と昼に校内でニュースや天気予報、音楽を流し、ラジオドラマも放送していた。部員は100人を超す大所帯。局長は後に劇団『黒テント』などを創設する演出家の佐藤信さん。そこに1学年後輩の吉永小百合さんが入ってきたんです」
「小百合さんは学校に来る時間もあまりないのに、駒場放送局のアナウンス部に入り、私が企画したアナウンス講習をきちんと受けてくれた。NHKのアナウンサーを呼んで、早口言葉などの基礎を教えるんです。小百合さんはクラス対抗の卓球大会にも出たりしていた。ただ、学校の前にいつも赤いクルマが待っていて、すぐに仕事に戻ってしまう。とても忙しそうでしたね」
安保・教師・父… 「受かってみせる」と闘争心
――高2の時に60年の安保闘争がありました。
「60年安保は大学だけでなく、高校でも盛り上がりました。6月のゼネストの前日。私は放送部員に『デモに行こう』と呼び掛け、局長の佐藤さんら4人で初めてデモに参加した。その4日後の雨の日、国会周辺のデモで東大4年生の樺美智子さんが亡くなったんです。ショックでした。翌朝、私はその事件をニュース原稿にし、校内放送しました。これをきっかけに『樺さんの後を継ぐためにも東大に入ろう』と思うようになります」
――東大受験を初めて意識したのはいつ頃からですか。
「高校入学時の成績が良かったので、高1の面談で『東大を狙います』と教師に言った覚えがあります。でもその後、放送局や学生運動、文化祭が忙しくなり、成績は下がるばかり。高2の面談で『このままでは東大は無理』と教師から言われ、カチンときて、『高校時代にやりたいことがある。受験で邪魔されたくない』と反論。さらに父からも『女は東大に行くもんじゃない』と反対されたので、『じゃあ、合格してやるわ』と逆に私の闘争心に火が付いたんです」
9科目は自分向き、受験準備は高3の9月から
――どんな対策を立てたんですか。
「東大の入試は国語2科目、歴史2科目、理科2科目、数学2科目、外国語1科目の計9科目でとても多かった。私は平均的にまんべんなく得点するタイプだったので、科目の少ない私大よりも、科目の多い東大向きだろうと自己分析したんです。ただ、勉強を始めたのは高3の秋。夏は原水爆禁止運動で忙しかったし、9月までは文化祭もあり、私は演劇で主役を演じていたので抜けられなかった。ようやく文化祭の最終日に仲間と渋谷に繰り出し、『さあ、あしたから受験勉強を始めよう』と励まし合ったのを覚えています」
――高3の9月からでは準備時間が少ないですね。
「私には受験という切迫した感じがなかったですね。当時は学習塾に通う人がいなかったし、安保闘争の余波で有名高校にも退学者が大勢いて、東大撲滅論まで出ていた。早稲田と東大の両方受かり、あえて早稲田に進んだ学生もいたくらいですから」
教科書・板書・問題集… 東大模試もひどい結果
――どんな勉強をしたのですか。
「特別なことはしていません。教科書に載っている内容を自分でノートにまとめたり、授業の板書を清書し直したり、月刊学習誌の付録を解いたり。問題集も1つだけをひたすら繰り返し解くというやり方です。『そんな勉強法で大丈夫なの?』と母が心配するほどでした。科目数が多いので、9月スタートではやはり間に合わない。東大模試も難しすぎて、10点とか、20点とか、ひどい結果でした。これでは勝負にならない。本番が近づいてくると、さすがに震えたり、金縛りにあったり、プレッシャーを感じました」
――本番はどうでしたか。
「まったく刃が立たないだろうと半ば諦めていたら、不思議なことに、本番では解ける問題がいくつかあったんです。たとえば全部で5問なら、2問は最初から捨てて、残りの3問でどこまで解けるかが勝負というのが基本戦略。でも自分に解ける問題はないんじゃないかという不安もあった。ところが私にも分かる平易な問題が出たんです。同級生に聞くと、その年の問題は、例年と比べてもかなり易しかったらしい」
平易だった62年の出題、おそらくギリギリで合格
「授業を真面目に受けて、教科書以上の難しいことをしなかったことが、結果的には良かったんでしょうね。今もよく覚えているのは、物理で学校の先生が直前にかけたヤマが当たり、問題がそのまま出たこと。『しめた』と思いました。素直な問題が多かったから、私でも通用したんです。でも、6割以上の得点は取れていないので、おそらくギリギリで受かったんでしょうね。発表の日。まさか合格しているとは思わないので、予備校に申し込みに行った後に見に行ったら、なぜか合格していたのでビックリ。あれだけ反対していた父もその日は大酒を飲んだそうです」
――正攻法の勉強法と運が味方したわけですね。
「私の世代は、安保闘争があったし、学習塾もなかったので、今とは状況が違う。平易な問題が多かったのもラッキーでした。だから、私のようなまぐれが起きたんでしょう。もう一度受験しても、現役合格できるかどうか自信がありません」
「娘や孫の受験参考書や問題集をみると、中学受験でさえ、私には難しすぎる問題が多いので驚きます。受験者を振り落とそうとする意地悪問題ばかりに取り組んでいたら、その弊害もあるのではないかと心配になってしまう。偉そうなことは言えませんが、素直な問題に触れていた方が子どもの頭脳は素直に伸びる気がする。その方が健全で好ましいのではないかと思います」
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