認知症の母と耳の遠い父 離れて暮らす娘が見た二人
映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」監督インタビュー
「母、87歳、認知症。父、95歳、初めての家事」。娘である「私」の視点から、遠く離れて暮らす認知症の母と耳の遠い父親の生活を描いたドキュメンタリー映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」が、東京を皮切りに全国で順次公開中だ。反響の大きかったテレビドキュメンタリーの映画化である。娘であり「私」であり本作の監督である信友直子さんに、認知症の患者を抱えた家族のあり方について話を伺った。
「自分が元気なうちは帰ってこんでええ」
――本作を撮ろうと思ったきっかけは何でしょうか。
母が認知症と診断されたのは2014年1月8日。1月5日が母の誕生日で、その後だったのでよく覚えています。ただ、その頃は発表しようと思って映像を撮っていたわけではないんです。
プライベートでも映像を撮りたいと思って、2000年に家庭用のビデオカメラを買ったんですね。それで2001年に帰省したときに、父と母の日常を撮り始めたのが最初です。
その頃は、母も台所でかくしゃくと家事をこなしていました。母の様子がちょっとおかしいなと感じたのは2013年くらいからです。それからも記録として撮り続けていましたが、母が認知症になったことを父は人に知られたくないだろうと思っていましたから、いつか両親が亡くなった後に何かで出せればいいかなくらいに思っていました。
2016年に、そうして私が撮り続けているのをたまたまフジテレビ/関西テレビ「Mr.サンデー」のディレクターが知って、ぜひ番組としてまとめてほしいと言われて、番組を意識して撮り始めたのはそこからです。そのとき父と母に恐る恐る話を切り出したら、案外あっさりと「いいよ」と言ってくれて。たぶん母は私に協力しようと思ってくれたのだと思いますが、あらためて良い親だなと思いました。
――ご両親が住んでいるのは広島県呉市ですが、信友さんはドキュメンタリー監督として東京で暮らしています。映画の中でお仕事を辞めて帰ってこようかと迷うシーンがありますが、そのときはお仕事を辞めない選択をされました。どのようなお気持ちでしたか。
あれは母がメマリーという認知症の薬を飲み始めたときでした。進行を遅らせる薬ですが、副作用があるので、様子を見ながら少しずつ薬の量を増やしていくんですね。父は、頭ははっきりしているのですが、耳が遠いので、父だけに任せてしまっていいものか悩みました。それで薬が安定するまで戻ってこようかとも考えたのですが、父に「自分が元気なうちは帰ってこんでええ」と言われました。
父は若い頃、夢を諦めたことがあって、だから自分たちのせいで娘がやりたいことをやめて帰ってくるのは許せないというか、娘のためというのももちろんありますが、それが父のこだわり、ポリシーでもあったようです。私もそれに甘えて仕事を続けたのですが、あのときは心残りのまま帰りました。バス停まで母が見送りに来てくれたのでその様子を撮影したのですが、あとで見たら画面がすごく揺れていて、ああ私の心が揺れていたんだろうなと思いました。
早く地域包括支援センターに行けばよかった
――ご心配も多いと思いますが、遠距離介護はどのような形でされているのですか?
母が認知症と診断されてからは2~3カ月に1回の頻度で帰省しています。フリーランスで仕事の区切りがついたときに帰ることができるので、そこは利点だと思います。
2016年に介護認定を受けて、最初はヘルパーさんが週1回、デイサービスが週1回というのから始まり、今は父と母が一緒に外科のリハビリに週2回行くほか、近所に住んでいる親戚が食事を持って様子を見に行ってくれるのが週1回という形で、ほぼ毎日人と接するようにしてもらっています。私も毎日電話をしているのですが、父は耳が遠いので、母が気付いて父に「電話よ、出て」と言って出る感じで、母の機嫌が悪いときは出てくれませんね。
――認知症と診断されたのが2014年で、介護サービスを受けたのが2016年ですから、少し間があいていますね。
実はテレビ番組になると決まったときに、「Mr.サンデー」は情報番組なので、地域包括支援センターのことも触れたいと思い、取材に行ったんです。それまで両親は介護認定を受けていなかったんですね。年も年ですし、母が認知症と診断された直後から、介護サービスを受けてほしいと何度も説得はしていたのですが、二人とも頑として聞いてくれなかったんですよ。
それで取材ということで近所の地域包括支援センターに行って話したら、そこの職員さんが、「ちょっと心配だから一度伺わせてください」とおっしゃってくれて……。それで見に来てくれたのですが、そのシーンは映画にも入っていますが、その方が本当に上手に父と母を説得してくださいました。
「何かあったら娘さんに連絡するといっても、東京から呉まで来るのに半日はかかるよ」とか「何かあったときに介護認定を受ければいいといっても、いざ何かあったときに申請しても、認定が下りるまでに1カ月はかかるので、今のうちに認定を受けるだけ受けておいたら?」とか。
父も「それじゃ受けるだけ受けておこうか」となって……。番組がきっかけで介護サービスを受けることができてよかったです。こんなことなら親に内緒で、もっと早く地域包括支援センターに相談に行けばよかったと思いました。
――介護サービスでヘルパーさんはどんなことをされるんですか?
最初は母の家事援助でしたが、だんだん母が家事をできなくなってきましたので、母の身体介助になり、最終的には父の介護保険も加わって介護予防を入れています。父は、耳は遠いのですが年を取っているだけで介護認定は非該当なんです。それが父のプライドでもあるみたいですが、介護予防という形でヘルパーさんが入れるので、それで来ていただき、主に食事のサポートとして、1週間に1回、作り置きの食事を作ってくれています。
ちょっと引いてみると面白くも感じられる
――お母様が認知症と診断されてどう感じましたか?
母が認知症になる10年ほど前に、認知症の取材をしたことがあるのですが、そのときは、もし自分の家族が認知症になったら非常に大変なことだと悲観的に捉えていました。でも実際に家族が認知症になってみて、カメラを回しているせいかもしれないのですが、ちょっと引いた立場で見ていると、ちょっとボケたおばあさんと、耳の遠いおじいさんが、繰り広げる日常がかわいくも、面白くも感じられる。
最初は、母が悲観的になるときもあるし、暴力的になるときもあるので、私もうろたえていました。母に「私はばかになったんかね?」と何度も泣いて言われたときは、一緒に泣いて翻弄されていたのですが、ただ母はそういう行動を取った後、疲れて寝てしまうんですよ。そして起きたときにはニュートラルに戻って、泣いている私を見て「何泣いてるの?」みたいな感じになる。これは振り回されるだけ損かなと思うようになりました(笑)。
私は以前、乳がんになったことがあり、治療が終わった後に3カ月ごとに再発転移していないか検査をしたのですが、最初の3カ月は心配でびくびく過ごしていたんですね。それで検査に行ったら何でもなかった。そのとき思ったんです。「悩んでも悩まなくても同じ3カ月。万が一再発していてもそのとき考えればいいこと。それまでは笑って過ごしたほうが得」だって。なんだかあのときに人生観が変わったような気がします。
だから母の認知症についても、「認知症になっても母が母であることに変わりはない。どうやって付き合っていくかが大事なのでは」と思っています。心掛けているのは、できるだけ母が暴力的にならないように先回りしてケアすること。例えば機嫌が悪くなりそうになったら、楽しい昔話をして笑わせたりとか、抱きしめたり、髪をなでたりしてスキンシップをはかるとか、そういったことをしています。認知症になったら誰にでも現れる記憶障害などのいわゆる中核症状は仕方がありませんが、周囲の人との関わりのなかで起きてくる暴言や暴力、徘徊(はいかい)といった周辺症状は、周りの人が気を使ってあげるだけで減らせますから。
プロができることはプロに任せていい
――これまでの経験から親の介護に悩んでいる人に何かアドバイスはありますか?
「Mr.サンデー」で番組をご一緒した認知症の専門医である和光病院院長の今井幸充先生が、「介護はプロとシェアしなさい」とおっしゃっていて、そうだなと思いました。「プロができることはプロのほうがうまいから任せる」ということです。例えば、入浴介助は家族がやろうと思うとけっこう大変で、介護される側も下手な人にやってもらうと気持ちよくないんですよね。やはり研修を受けたプロがやったほうが気持ちがいいし、安心です。
家族も重労働しなくていいからストレスがその分たまらない。そういうプロができることは、プロに任せて、私たち家族は、「家族にしかできない、本人を愛してあげることをやりなさい」と言われて、なるほどと納得しました。
正直に言えば、私も「女なのに」「娘なのに」と思って、ヘルパーさんに入ってもらうことに引け目があったんですね。洗濯とか料理は娘がしなければならないことじゃないかと思って。でもそれをやればやるほど肉体的に負担になって、いらいらして、母に冷たくしてしまうかもしれない。そういうことがないようにするためには、プロとうまくシェアして、家族は愛することに徹することが大事なんだなと思いました。
認知症は悲観することではない
それから母が認知症になって分かったのは、認知症はそんなに悲観することじゃないということです。逆にいいこともありました。私は若い頃から母が大好きで、いつも母とガールズトークをしていたんですね。父はといえば新聞読みながら、加わりたくても加われなくて眺めていたんですよ。そんな感じで私は父とは接点がなく少し距離がありました。
それが母の認知症で、父と話をするようになったんです。母が認知症になったとき私は50歳だったのですが、それまでの50年とそれからの5~6年で、後の5~6年のほうが全体量として父と話しているんですよ。
父は、それまで「男子厨房に入らず」で家事なんてやったこともなかったのに、母の認知症が分かってからは、料理をしたり、縫い物をしたり、何でもしてくれる。やってみたら案外できるので本人も楽しくなったみたいで、そういう前向きな性格とか、いいところをたくさん発見できました。若い頃は真面目なだけでダサいななどと思っていたのですが、「女房がピンチになったときにここまで助ける男なのか」という発見もあり、そういう意味では父をますます好きになれてよかったと思います。
もう一つ、これはいいことと言っていいのか分かりませんが、私は母が大好きなので、もし突然母が亡くなっていたら喪失感がとても大きかったと思うのですが、認知症になって徐々に今までの母ではなくなっていくのを見ていくことで、なんだか諦めがつくようなところがあります。神様が親切に時間をかけて、私の前から母の存在を消してくれているように思えるんです。ただ、その分、父と仲良くなりすぎたので、父が亡くなるときは、こんなに悲しくなるはずじゃなかったのにと思うかもしれませんが(笑)。
――最後にこの映画で信友さんが伝えたいことは何かをあらためて教えてください。
この映画は、大切な家族を思い出しながら見てもらいたいですし、ご自分の大切な方の今後を考えるきっかけになればと思って作りました。また医療、福祉、介護関係の方々には、家族にしか見せないブラックな顔も見せていますので、参考になればいいかなと思います。
これを撮影するときは娘なので主観は入るのですが、ナレーションはごく少なくして編集にも間をもたせて、見る方に考えてもらう時間をつくり、一家族の流れを客観的に見せられるように心掛けました。
実は、これは撮ってないで手伝ったほうがいいんじゃないかと思ったシーンもいくつかあったんですよ。例えば、母が洗濯の途中で洗濯物が散らばった床で寝てしまうシーンとかは、絵としては良いシーンなのですが、娘としては手伝わなければと葛藤しました。それでもう十分撮ったから手伝おうと思ったら父がひょこひょこ来て、母をまたいでトイレに行く。「洗濯しとるんか」「まだ水も入れとらん」「まあゆっくりやれや」なんて会話して。ああ、これが二人の日常なんだなと気付いて……。
老老介護とか、認知症というと深刻で暗いイメージになるのですが、父と母の日常はユーモラスで、まあ、二人が明るいキャラクターだから私も監督として映画にしようと思ったというのもありますが、そういう何でもない日常を見てもらいたいと思います。
◇ ◇ ◇
最後に、映画撮影後のお二人はどうしているのか聞いてみたところ、「実は母はつい最近、脳梗塞を発症し、現在は入院治療しています」と信友さん。お父様は自宅でひとり暮らしをしているそうだ。「脳梗塞にはなったけれど、見舞いに行けばまだ私が直子だと分かっていて、遠くから心配して来てくれて悪いねと言ってくれています」
「認知症はいろいろシミュレーションしていても、何が起こるか分からない。分からないなら、今日を楽しむしかない。本当にそう思うようになりましたね」と笑いながら話す信友さんは常に「前向き」。それが認知症の家族を支える秘訣かもしれないと思った。
(ライター 伊藤左知子)
ドキュメンタリー監督。1961年広島県生まれ。84年東京大学文学部卒業。86年から映像制作に携わり、フジテレビ「NONFIX」や「ザ・ノンフィクション」で数多くのドキュメンタリー番組を手掛ける。「ザ・ノンフィクション おっぱいと東京タワー~私の乳がん日記」でニューヨークフェスティバル銀賞・ギャラクシー賞奨励賞を受賞。他に北朝鮮拉致問題・ひきこもり・若年認知症・ネットカフェ難民・アキバ系・草食男子などを取り上げてきた。本作が劇場公開映画初監督作品。
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