横川竟氏は、日本でまだチェーンレストランがほとんどない時代、当初からチェーン化を目指した

--当時の飲食店といえば、まだまだ家業・生業の時代で、チェーン化していたのは「養老乃瀧」くらい。それなのに初めからチェーン化を目指された。

当時は「養老乃瀧」が千二百数十店というテレビコマーシャルを流していましたね。そのほかでは新宿に「三平食堂」が4~5店、「鮒忠」が20~30店展開していましたか……。それに対し、うちでは1号店を作る前から「三多摩30店計画」というのがありました。ペガサスクラブで勉強したドミナント戦略です。狭い地域に店を集中させることで、配送効率も知名度も上がり、優位に立てる。本部が国分寺でしたから、ここから放射線状に店舗展開していく。70年は甲州街道作戦、71年は青梅街道作戦、72年は五日市街道作戦という立地戦略を決めた。

しかし、五日市街道は道路の流れが当時あまり良くなくて失敗しました。そこで十数店の時代に、次は埼玉、神奈川、千葉と各30店を作る首都圏100店構想を、さらに埼玉県東松山に大きなセントラルキッチン(CK)を作る前に、関東300店構想というものを作りました。初めに思想ありき、計画ありきでやってきたのですね。

おいしい店に行けば値段が高い、安い店はまずくて汚い、ろくに挨拶もしないようなところばかり。我々はきれいで、きちんと挨拶もし、3000円、5000円といった高いものは売らない店にすることを目指しました。きれいで良いサービスで、速いということですね。おいしいということはあまり頭になかった。

――それまでは、料理を提供しても、おいしいという自信はなかったのですか。

いえ一生懸命には、やっていました(笑い)。それまでいたシェフが、ハンバーグとピザは必ず提供したいということで、この2品に対してはこだわりを持っていて、これが主力商品となった。ハンバーグは牛と豚の合いびき肉を使って、お客様からも「おいしい」と言ってもらえ、1日300枚くらい出ました。

ただ、ほかにもメニューはたくさんあったのですが、どれも今一つ。そこで人を介して三井グループの会員制クラブ、三井倶楽部のシェフだった番場善勝さんを紹介され、指導をお願いに行きました。

番場さんは最初はけんもほろろで相手にもしてくれない。しかし何回も通ううちに、三井倶楽部の支配人の方が「番場さん、この若い人たちの会社は面白そうだし、一生懸命やっているから、手伝ってやりなよ」と助け舟を出してくれ、ようやく武蔵野店で試食してもらうことができました。

ところが「こんなものは食べられない」など、ひどい言われよう。何とか説得して週1回、指導に来てもらえるようになりました。そうすると、三井倶楽部のようなホテルレベルの厨房で修業を積んできたシェフと、街場のレストランで料理を作ってきたシェフとでは、やはり基礎から違うのですね。素材から作り方、調理器具まですべてダメ出しで、変えました。

後に番場さんにはすかいらーくに移籍していただき、常務にまでなられるのですが、この時の「番場改革」が料理のレベルを、街場の食堂からホテルクラスへと大きく引き上げたのですね。また、当時残っていたスーパーを閉め、従業員7人ほどを世田谷のレストランに1年間修業に出し、料理の腕を磨かせた。自前の料理人を育成したのです。このため、71年から72年にかけ、1年間は新規出店しないで我慢していました。