パワハラ問題で考えた「スポーツのあり方」 有森裕子
寒暖の差が激しい日が続き、体調を崩されたりしていないでしょうか。早くもインフルエンザを発症した人がいるという話もちらほら耳にします。いよいよ突入するランニング大会のシーズンに向け、万全の状態で挑めるように気をつけましょう。
さて、インドネシア・ジャカルタで開催されていた第18回アジア競技大会が9月2日に閉幕し、日本は中国に次ぎ、史上2位となる75個もの金メダルを獲得しました。日本を代表するアスリートたちが2020年の東京オリンピックへとつながる活躍を見せてくれた一方で、最近、スポーツ界が抱える問題を浮き彫りにするような、うれしくないニュースが立て続けに報道されています。
相次ぐスポーツ界の不祥事にため息が…
その発端となったのが、女子レスリング界におけるパワーハラスメント(パワハラ)問題です。オリンピック4連覇の偉業を達成した伊調馨選手に対し、日本レスリング協会の幹部(当時)がパワハラを行ったとする告発がなされ、同協会はパワハラの事実を認め、謝罪しました。
大学スポーツでも大事件が勃発しました。日本大学アメリカンフットボール部の監督(当時)とコーチ(当時)が、関西学院大学との定期戦で、自チームの選手に相手選手への危険なタックルを指示し、ケガをさせたとして刑事告訴されたのです。当該選手が命令に背けずに悪質なプレーを行った背景には、チームに蔓延するパワハラがあったと報じられています。
アマチュアボクシング界では、公式戦での不正判定や助成金の不正流用、日本ボクシング連盟会長(当時)の反社会的勢力との交際などが次々と発覚。会長のみならず、理事全員が辞任する事態になったのは記憶に新しいところです。
さらに、女子体操界では、コーチが選手への暴力行為で日本体操協会から処分された直後に、当事者である選手が協会幹部からのパワハラ被害を訴えるという思わぬ展開になっています。
それぞれの詳細は分からないので確かなことは言えませんが、次から次へと新たな問題が明るみに出るたびに、「またか」というため息しか出てきません。こうした不祥事が報道されるたびに、スポーツ全体の印象が悪くなっていることは確かでしょう。
2020年の東京オリンピックを間近に控え、本来なら選手たちはさらに競技に集中すべき時期です。ところが、こうした問題の渦中で練習どころではなくなってしまった選手も出てきています。暴力やパワハラ、コンプライアンスの欠如に対する世間の厳しい目がスポーツ界にも向けられるようになったことで、内部からの告発が相次ぎ、長年、関係者らが見て見ぬ振りをしてきた悪しき慣習や体質が次々と露呈してきているように見えます。
失われていく「正しいスポーツのあり方」
一連の報道を見ていると、競技団体の幹部やチームの指導者が権力を持ちすぎて独裁的になったときほど、本来の「正しいスポーツのあり方」が忘れられ、「間違ったスポーツに対する考え方」が蔓延していくように感じます。
では、「正しいスポーツのあり方」とはどんなことなのでしょうか?
私が考える正しいあり方とは、「スポーツは、社会で生きていくための1つの手段にすぎない」ということです。
競技を引退しても社会人としてきちんと生きていくための1つの手段がスポーツであり、選手がその競技を通じて社会で生きていくための人間性を育てたり、サポートしたりすることが、指導者や幹部の本来の役割であるはずです。それは、学校のクラブ活動のレベルはもちろんのこと、オリンピックのメダリストを育てるトップレベルでも同じだと思うのです。
指導者や幹部が勝利至上主義に走り、選手を試合に勝つことだけを目指す"スポーツ人間"に育てることは、「正しいスポーツのあり方」とはかけ離れた育成方針であると私は思います。
日本一になった先、あるいはオリンピックでメダルを獲得した先には、何があるのでしょう。努力して世界記録を出した先に、何が待っているのでしょうか。
どんなに偉大なアスリートも、いつかは競技を引退して、競技者ではないセカンドキャリアを歩まなければいけません。そのときになって、「かつて世界一になった」という栄光をよりどころにしてふんぞり返り、結果を出すためには何をやってもいいと思うような大人になって幸せになれるほど、世の中は甘くありません。
今回、ニュースで取り上げられた幹部や指導者たちは、自分たちが取った行動や言動で、そんな"スポーツ人間"を世に輩出してきたかもしれないということを深く反省し、いま一度、指導者とは何か、スポーツとは何かを考えるべきではないでしょうか。
学校のクラブ活動に、競技スポーツの考え方は不要では?
もちろん、選手たちを立派な社会人に育てるべく、真っ当な教育をされている指導者はたくさんいるでしょう。そうした方々は、一連の暴力やパワハラ問題に腹立たしさを感じているでしょうし、本当にお気の毒に思います。
また、こんなに情けない大人たちの姿をメディアを通じて目の当たりにしたことにより、選手(子ども)が指導者(大人)を信用しなくなる、という弊害が生じているかもしれません。両者の根底にあるべき信頼関係が揺らぐと、指導に過剰に反応してクレームに変える選手も出てくるかもしれませんし、そんな選手に対してうまく指導できないもどかしさから、思わず手や暴言が出てしまう…という悪循環も起こり得ます。
そんな状況を回避するためにも、私は、学校のクラブ活動に関して言えば、競技スポーツというあり方は必要ないのではと考えています。クラブ活動はあくまでも、メンタル・フィジカルエデュケーション(保健と体育)の一環として捉えるべきで、心と体を育てるための基礎的な動きや考え方を教える場にすればいいのではないでしょうか。
その上で、そのスポーツをより本格的に極めたいと志す子どもたちは、学校の外のクラブチームなどに所属し、競技力を向上させられるような体制にすればいいと思います(もちろん団体種目など、競技によってはそうした体制にするのは簡単ではないことは分かりますが…)。
そうすれば、子ども本人は、本格的にやろうと自身で決めたことに対して責任を持ち、高いレベルの練習や厳しい指導にも、納得しながら取り組もうとするのではないでしょうか。一方、そんな高い意識を持った子どもたちを教える指導者は、より真剣に子どもと向き合い、競技力向上のための厳しいコーチングもしやすくなります。
このようなすみ分けができれば、「同じ指導内容でも、Aくんは納得できて、Bくんはひどい暴言やパワハラを受けたと感じる」という状況が生まれにくくなるのではないかと思います。もちろん暴力による指導は論外ですが、互いの熱意や真剣さが伝われば、信頼関係は深まり、指導の一つひとつが競技力向上や強いメンタルの育成につながりやすくなるように思います。
「アスリートファースト」という言葉はなくしたほうがいい
最後に一点、社会性を失い、私利私欲で動くようなスポーツ指導者や、組織を私物化する競技団体幹部などがいる現状で、「アスリートファースト」という言葉が当たり前のように使われていることを、私は恥ずかしく思います。
「アスリートファースト」というのはもともと、競技団体やスポンサー、大会主催者などの都合ではなく、アスリートが最高のパフォーマンスを発揮できるような環境整備を優先しよう、という意味合いで使われ出した言葉です。
そのこと自体に異論はありませんが、実際には、「アスリートファースト」という言葉を盾に、関係者が自らのエゴを押し通そうとしていると感じることが少なくありません。
どんなに優れたアスリートであっても、社会という集合体の中の1人の構成員にすぎず、オリンピックも社会で生きるための1つの手段にすぎません。オリンピックに関係なく生きている人が大半を占める中で、そんな人たちが働き、この社会を支えているからこそオリンピックが開催できるのだという事実を忘れてはいけませんし、スポーツにさしたる関心を持たない人たちの感情を無視することがあってはいけないと思うのです。
私は、東京オリンピックを含むすべてのスポーツイベントは「アスリートファースト」ではなく、「社会ファースト」であるべきだと思っています。その社会ファーストを実現させるためにも、競技団体の幹部や指導者たちがスポーツを通じて、社会でしっかり生きることができる人間を育てなければ、スポーツの意義が社会の中から失われていくのではないかと危惧しています。
(まとめ:高島三幸=ライター)
元マラソンランナー。1966年岡山県生まれ。バルセロナ五輪(1992年)の女子マラソンで銀メダルを、アトランタ五輪(96年)でも銅メダルを獲得。2大会連続のメダル獲得という重圧や故障に打ち勝ち、レース後に残した「自分で自分をほめたい」という言葉は、その年の流行語大賞となった。市民マラソン「東京マラソン2007」でプロマラソンランナーを引退。2010年6月、国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞を日本人として初めて受賞した。
[日経Gooday2018年10月9日付記事を再構成]
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