――ファッション好きはお母さんの影響ですか。
「私は昭和17年(1942年)の生まれですから、物心ついたら敗戦でした。駐留軍の方がうちによくみえてましてね、アメリカの食べ物やファッションがわりと身近にありました。母が駐留軍の払い下げの毛布なんかを染めて、洋服をつくって闇市で売っていました。よく覚えているのが真っ赤なポンチョです。野戦地で使うテントを駐留軍から母がもらいましてね。真っ赤なやつの真ん中に穴を開けて、『雨の日はこれを着ろ』と。着て歩いていたら、周りからは『変な子供』といわれてました」
――セレクトショップの草分け、サンモトヤマの創業者、故茂登山長市郎さんとの親交もそのころからですか。
「私が茂登山さんと親しくしてもらったのは小学5、6年生のころのことです。こんな出来事をよく覚えています。あるとき、日比谷・三信ビルの店舗で、日本橋の百貨店の値札がついた商品を私が見つけました。子供ながらに『まずいな』と思い『ついてるよ』って教えたら、茂登山さんに『黙ってろ』と叱られたんです(笑)。当時は外貨規制がありましたから、百貨店が手がけたイタリア展の商品を分けてもらったんですね」
■母親や祖父の影響から、自然とファッションに興味
――なぜ小さいころから銀座に。
「私は9歳で美術展に出品、新聞やラジオに『天才少年現る』と取り上げられました。すると、銀座の画商がついてくれて、作品が売れちゃったんですよ。子供がお金を手にしても何も使い道がありません。おしゃれ好きだった母親や祖父の影響から、自然とファッションに目がいくようになりました」
「当時、変わったものがあるのはやっぱりサンモトヤマさん。それから上野でした。中学に入ってからジーパンが出始めましてね。ジーパンは上野に行かなければ買えませんでした。それでも一種の闇市ですから、行くたびに値段がまちまちでしたね。貯金を下ろしていざ買いに行くと、下調べしたときより高いんですよ。店のおじさんに聞くと、『前に来たときは、お金を持っていなかったじゃねえか。だからあの値段だったんだ』。私の懐具合をお見通しだったんです」
「お金の管理は自分でしていました。ただし、母親はしっかりしていまして、売り上げの1割をとられていました。『私の粘土と私の薪(まき)でつくったんだから材料費だ』といって。日本人なんだけど、なんだかアメリカ人みたいな母親でした(笑)」
(聞き手は平片均也)
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