建築家・隈研吾さん 父が鍛えてくれたプレゼン力
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は建築家の隈研吾さんだ。
――1964年の東京オリンピックで丹下健三氏設計の国立代々木競技場を見て、建築家を志したそうですね。
「父は普通の会社員でしたが、デザインが好きで、よく話題の建築を見に連れていってくれました。建物の前で家族で記念撮影をするだけのレジャーでしたが、楽しかった。なかでも大谷幸夫氏が設計した東京都児童会館などは、その後一人で何回も訪ねました。そんな日々を送っているときに出合ったのが代々木競技場です。日曜日には、開放されているプールに泳ぎに行き、こんな建築をやってみたいという思いが強くなりました。小学校の4、5年になると、友人にも、そんな話をしていました」
――両親、妹との4人家族。
「育ったのは横浜市大倉山。農地に囲まれた小さな家で、私や妹が大きくなって一人部屋が欲しいというたびに増築をしていました。父親が家族の意見を聴きながら方眼紙に間取りを描きます。なぜその間取りにしたいのか、きちんと説明しないと父は納得してくれません。いま僕の建築事務所でしていることと同じことをしていました」
「父は、ものを買ってほしいと言うと、僕にリポートを書くよう言いました。例えば、テープレコーダーを買ってもらいたいときは候補の機種の特徴などを一覧にして、そのなかで一番欲しいのはどれか、なぜその機種を選ぶのかを明確に書かなければ買ってくれませんでした。妹は『欲しい』というだけで買ってもらえ、不公平だと思いましたが。父は、僕は口べたで人付き合いがうまくできそうにないと思っていたようです。僕は絵が好きで、芸術家を目指すという選択肢もあると思ったのですが、父は感性だけで勝負する世界に行くことは望んでいませんでした。それでこうした訓練を課したのかもしれません。後々、建築のプレゼンに役立ちました」
――デザイン事務所のような家庭だったのですね。
「母も家族会議のときは、デザインについていろいろ意見を言っていました。僕は父が45歳のときの子どもで、母は父親より18歳若かった。母の繊細な優しいデザインセンスに引かれました」
「父は1994年に亡くなりましたので、僕が設計事務所を興したてのころの建築しか見ていません。母はまだ健在です。一度、万里の長城の脇につくった竹造りの建築を見せに、中国に連れていったことがあります。北京の街中の古い建物を案内すると、喜んでくれました。でも、僕の作品については何も言いませんでした」
「母とは、仕事の話はほとんどしません。子どもの自慢をするようなことは嫌いでした。両親とも私に強い影響を及ぼしましたが、建築家になってからは何も言わず思うとおりにやらせてくれました」
[日本経済新聞夕刊2018年10月9日付]
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