「これでよかったの?」宮城まり子さん、半世紀の自問ねむの木学園の半世紀(下)

「私は障害について、何も知らない女優でした。親戚にも周囲にも(障害を持っている人は)いなかった。それが、たまたま障害を持っている子供の役をやって、いろんなところに勉強しにいくうちに気付いたんです。不思議だな、(障害を持った子供たちが学ぶ)学校がないって。あの子たちが泣いているのに放っておいていいのかという、そんな気持ちだけでした」

吉行淳之介さんとの約束、今も

――パートナーである作家の吉行淳之介さんと3つの約束をしたそうですね。1つは愚痴をこぼさないこと、2つ目はお金がないと言わないこと、3つ目はやめないことでした。亡くなった後も、その約束は続いているのですか。

「厳しいね。そのときは、厳しい優しさと思わなかったの。ああ、淳ちゃんの許可をもらってうれしいと。でも、やめるというのは死ぬことでもあるでしょ? 死んじゃいけないんでしょ? でも、いいかげん年をとった。百歳になっても夢見る人であり続けるみたいで、体がついていかないから、今つらい」

吉行淳之介さん(左)は最大の理解者でもあった

――まり子さんが亡くなった後もねむの木が続くのであれば、「やめない」ことになるのでは。

「分かんない。私が死んだら」

――引き継ぐ人がいれば続くのではないですか。

「見つかったらいいね。欲しいね」

――これまでねむの木に勤めた職員のなかに、後継者はいなかったのですか。

「定年になったら辞めていくからね。なかには自分で学校つくったり園長になったりしている人もいるよ。この前の運動会のときも、たくさん来たよ。『おーい、元気かよっ』て言うと、『元気です』『ありがとうございました』って。(自分のところの)子供をみてほしいという話が一番多いかな」

――まり子さんは自ら、絵やダンスを子供たちに教えてきました。別の人に、まったく同じように運営できますか。

「うーん、それはないね。だって運動会も(子供たちのコーラスやダンスによる)コンサートも、演出して、たくさんの人に来てもらったり見てもらったりできるのは私だけだから」

――50年続けてきて、達成感のような気持ちはありませんか。

「私なんかがこんなことしてよかったのかしら、これでよかったのかしらと、いつも思っています。それを生意気にしゃべっていることも、これでいいのかと思っています。今になって、恐れ多く感じます。こんな思い上がり」

――子供たちの成長は励みになるのではないですか。

「(感じる心を)持っていてくれるように何人かはなってくれて。すべてなげうって(ねむの木を)やろうと思った気持ちが少しかなってうれしい」

――子供たちのこれからを考えると心配ですね。

「それ考えると、つらい。立つことのできない子がたくさんいますけど、この子たちをどうしてあげたらいいんだろうと思って。だから、もっと、もっと、生きなきゃなんないわね」

◇   ◇   ◇

<聞き手から>

自らの主張、声高に語らず

宮城さんのインタビューには1年近くをかけた。自らの考えを声高に語ることを宮城さんが嫌ったため、何回かに分けて少しずつ話しを聞いた。ねむの木から巣立った子供もいれば、今もねむの木で暮らす子供もいる。宮城さんは一人ひとりについて、「これでよかったのか」と自問自答しているようだった。

一方で冗舌だったのは、パートナーだった吉行淳之介さんとの思い出だ。毎日自室に帰るたび、心のなかで吉行さんに「ただいま」と語りかける宮城さん。「今日はしんどかった」と訴えれば「大丈夫かい?」というように、都合よく返事があるという。亡くなって四半世紀たった今も、宮城さんの支えになっている。

(聞き手はオリパラ編集長 高橋圭介)

宮城まり子
1927年3月生まれ。55年、「ガード下の靴みがき」で歌手デビュー。その後、女優としてミュージカルの舞台に立つ一方、映画やテレビ・ラジオにも多数出演。68年に日本初の肢体不自由児養護施設「ねむの木学園」を設立。79年、肢体不自由児のための特別支援学校「ねむの木学校」を開校。子供たちが描いた絵の展覧会やコンサートを開くほか、「ねむの木の詩がきこえる」(77年)など4本の映画を製作・監督し、国内外で高い評価を得る。作家の故・吉行淳之介氏のパートナーとしても知られる。

ねむの木50年に合わせて実施した、宮城まり子さんのロングインタビュー。五輪とパラリンピックについて語った上編「『五輪と一緒ダメなの?』 宮城まり子さんが語るパラ」、太陽の家創始者である中村裕さんとの交友を明かした中編「宮城まり子さん、盟友はパラ生みの親 ともに障害学ぶ」も合わせてお読みください。