宮城まり子さん、盟友はパラ生みの親 ともに障害学ぶねむの木学園の半世紀(中)

インタビューに答える宮城まり子さん
インタビューに答える宮城まり子さん

前回のインタビューで「パラリンピックは嫌い」と語った、ねむの木学園の宮城まり子さん(91)。だが1964年の東京大会について聞くうちに、意外な交友関係が明らかになった。東京にパラを誘致しようと奔走した外科医の中村裕さんだ(「東京パラから巣立った人たち 障害者の自立は道なき道」)。パラの後、障害者の自立のための工場をつくった中村さんと、障害のある子供たちの学校をつくった宮城さん。どんな接点があったのだろうか。

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――64年に東京でパラリンピックがあったことはご存じですか。まり子さんが「ねむの木学園」を開く4年前です。

「知っているだけは知っている。開会式にも行ったよ。でも、当時はねむの木をつくろうとして忙しかった。競技よりも、ねむの木のことが、障害を持っている人たちのことが気になって。そういう目で見ていました」

――印象に残っている光景とかありますか。

「忘れた。ただただ、びっくり。人がいっぱいいて、走ったりなんかしているのにびっくりした。50年たったら忘れます。そんな細かいこと」

出会わなかったら開園遅れていた

――東京パラで選手団団長を務めた中村さんは、その翌年、障害者の自立のための施設「太陽の家」を大分県別府市に開きました。ご存じないですか。

「中村先生のことなら、よく知っています。ねむの木を始める前からのお付き合い。仲の良い友達です」

「先生が(東京パラリンピック開催のため厚生省などの役所に)陳情に行くときも一緒に行きました。でも私は素人だから中には入らない。『先生、ここで応援している』と言って、玄関で待っていた。私みたいな素人に応援してもらっているなんて、先生に無礼じゃないですか」