独ダイムラー・ベンツと米クライスラーが合併を発表したのを受けて、危機感を強めたルノーも提携相手を模索していた。候補にのぼったのが、業績不振にあえいでいた日産。だが、日産は当時、すでにダイムラーから出資を受けるための交渉を進めており、提携相手にルノーを選ぶ可能性は低いと考えられていた。

ダイムラー提携を願うが、立ち消えでがっかり

日産自動車に入社して間もない「海外部」時代の同僚たちと。後列右から2人目(男性の隣)が田中さん。

米ワシントンでヒヤヒヤしながらその経緯を見守っていた田中さんは、ダイムラーとの交渉がまとまることをひそかに期待していたという。

「学生時代にドイツ語を専攻していましたから、ダイムラーだったら自分が活躍できるだろうと考えました。99年3月にダイムラーが出資交渉から手を引いたというニュースをニューヨークで知ったとき、隣にいた日本人に『田中さん、きょうはため息ばかりついていますね』と言われたのを覚えています。そのころはこのまま失業したらどうしようかと、本気で心配していました」

間もなく、そんな田中さんのもとに即帰国の命が下る。提携先のルノーからCOO(最高執行責任者)として日産にやってくることになったカルロス・ゴーン氏が専属広報を必要とし、語学力もあり、広報としての経験も積んでいた田中さんに、その白羽の矢が立ったのだ。

ゴーン革命で変わった、日産の広報システム

「ゴーンさんが日産に来て、まず何が変わったかといいますと、社内広報と社外広報が一体化したことでした。従業員はそれまで、会社の重大ニュースを新聞記事で初めて知ることも多かったのですが、彼が来てから社内広報と社外広報は同時か、社内が先かに変わりました。体制的にも、それまで社外広報は広報部が、社内広報は人事が担当していたのですが、両方とも広報部が担当するという形に一本化されました」

その結果、新聞紙面で初めてニュースを知った社員が慌てふためくようなこともなくなったという。再建の最中にあった日産にとって、これは非常に重要なことだった。

「ゴーンさんは99年4月に来日し、その10月に『日産リバイバルプラン』を発表しました。発表前の7月7日に管理職を一堂に集めてスピーチをしています。『コストカッター』『コストキラー』と恐れられているという海外の報道もあり、ネガティブなイメージを持っていた管理職もいたはずですが、そのスピーチで完全に心をつかまれた印象でした」

本音でコミュニケーションする田中さんを、ゴーン氏も信頼していたのだろう。2000年に社長就任するにあたり、前任者の塙義一氏とともに記者会見を開くことになった際のエピソードがそれを物語る。

このような場合、日本では新旧社長がそろって会見に臨むのがならわしだ。しかし、ゴーン氏は当初、「なぜ2人並んで会見しなければならないのか?」と抵抗を示した。それを田中さんが説得。ゴーン氏は納得したわけではなかったが、最後は「君がそう言うならやろう」と、塙氏と並んで会見に出ることを承諾した。

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ゴーン氏が日産社内で認められた瞬間