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池上彰の大岡山通信

50年前、学生たちの反乱はなぜ起きたのか 池上彰の大岡山通信 若者たちへ

2018/10/8

いまから50年前の1968年は、不思議な年でした。世界中で若者の反乱が同時多発的に起きたからです。

一体なぜだったのか。いまフランスやチェコなどを回りながら、当時の様子を取材しています。

「日本のカルチェ・ラタン」と呼ばれた

この年、日本では東京大学と日本大学でほぼ同時に学生たちの「異議申し立て」が起きました。東大は医学部学生の処分撤回要求であり、日大は大学による使途不明金の疑惑解明要求と、内容は異なっていたのですが、これをきっかけに全国の大学で、それぞれ独自の要求を掲げて学生運動が盛り上がりました。

69年になると、東京工業大学では学生寮の規約改正をめぐって学生自治会がストライキにはいりました。

東京の神田には日大のほか明治大学や、当時は中央大学のキャンパスもあり、学生たちと機動隊が路上で激しく衝突しました。この様子を当時のマスコミは「日本のカルチェ・ラタン」と呼びました。

「カルチェ・ラタン」とはフランス・パリの学生街のこと。当時フランスでも学生たちの「異議申し立て」が激しく、学生街で警官隊と衝突を繰り返していたからです。

この運動は、その後「五月革命」と呼ばれるようになります。ドゴール大統領の退陣につながっていったからです。

この年、西ドイツでもカリスマ的指導者ルディ・ドチュケ指導の下、学生運動が盛り上がり、その中から過激な「ドイツ赤軍」が生まれます。この様子など、日本の学生運動の過激化から「日本赤軍」が誕生したことを髣髴(ほうふつ)とさせます。

さらに翌年にはイタリアでも過激組織「赤い旅団」が組織され、元首相の誘拐・殺人を実行してイタリア国内を震撼(しんかん)させました。

一方、アメリカ国内では黒人差別撤廃を求める公民権運動が盛り上がり、中心的指導者だったマーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺されました。全米各地の大学ではベトナム戦争反対の集会も活発に開かれ、鎮圧に出動した州兵によって学生がキャンパス内で射殺される事件も起きました。

東西両陣営の内部で体制批判

8年ぶり、ほぼ全学部がストに入った東大構内でデモをする学生(1968年6月、安田講堂前)

当時は東西冷戦時代ですが、東側においても体制変革の動きが起きました。68年3月にポーランドのワルシャワで学生たちが民主化を求める運動を始めると、チェコスロバキア(現在はチェコとスロバキアに分離)では共産党が民主化へと動き出しますが、ソ連軍をはじめとするワルシャワ条約機構軍の戦車部隊によって押しつぶされます。いわゆる「プラハの春」です。

どうして東西両陣営の内部で同時に体制への「異議申し立て」が起きたのか。このうち東側では、ソ連でスターリン批判が起きたことをきっかけに体制への不満が爆発しました。一見強固に見えた社会主義体制の綻びが露呈したのです。

一方、西側では激化するベトナム戦争への嫌悪感が広がっていました。当時のアメリカは徴兵制があり、若者たちは、いつ死地に送られるかもしれないという恐れを持っていました。またリンカーンによる奴隷解放宣言があっても一向に改善しない差別への怒りもありました。

いけがみ・あきら 東京工業大学特命教授。1950年(昭25年)生まれ。73年にNHKに記者として入局。94年から11年間「週刊こどもニュース」担当。2005年に独立。主な著書に「池上彰のやさしい経済学」(日本経済新聞出版社)、「池上彰の18歳からの教養講座」(同)、「池上彰の世界はどこに向かうのか」(同)、新著「池上彰の未来を拓く君たちへ」(同)。長野県出身。68歳。

日本やドイツ、フランスでは自国政府がアメリカ政府と共同歩調をとっていることへの不満や、共産主義運動組織がスターリン批判を契機に分裂し、一部が過激化したことも要因でした。

しかし、それ以上に戦後十数年経(た)って安定してきた社会への不満や変化を求めた若者たちの情熱が一気に噴き出たのでしょう。当時、先進国では大学の大衆化が進んでいました。それまで一握りのエリートでしかなかった大学生の数が激増。そんな中で自分の立ち位置を模索した学生たちが多かったのだと思います。

当時の大学生たちは、あらゆることに怒りを募らせ、「変革」を求めていました。何に怒っていたのか、彼らが求めた「変革」とはなにか。キャンパスに立て看板が全くなくなった平和な大学を見るたびに、答えが見つからない問いを立ててしまいます。

[日経電子版2018年10月02日付]

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