タレント・高見のっぽさん 息子の才能信じたおやじ
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はタレントの高見のっぽさんだ。
――お父さんは戦前の芸能の世界で活躍されたとか。
「根っからの芸人でした。明治30年代に熊本で生まれ、17歳のころには地元の芝居小屋で照明係をやっていた。そこに現れたのが旅回りの松旭斎天勝一座です。一目でとりこになったおやじは故郷を捨て一座を追っかけた。数年後には松旭斎天秀と名乗って舞台に立ち、奇術で人気を集めていたようです。当時のブロマイドが残っています。それはそれは美男子でした」
「天勝一座が東京の両国で興行した際、天秀に一目ぼれしたのが、相撲茶屋の4人姉妹の三女のおキンちゃん。私の母です。2人は西へ逃げた。おやじは名前をチャーリー高見と変えてチャップリンの物まねをしたり、大阪の通天閣あたりでバンドマスターをやったり、ちょい役で映画に出たり。でも、こんな話はみんな後になって聞いたこと。私が生まれたころは京都の太秦で電気器具商を営み、家族で細々と暮らしていました」
――芸能の道に進んだのは、お父さんの影響ですか。
「疎開先の岐阜で戦争が終わると、よく芝居に連れて行ってくれました。へたなチャンバラには『こんなもの見ちゃダメです』。名古屋の御園座では新国劇の舞台に『すばらしいですねぇ』と目を輝かせた。その後東京に引っ越すと、チャーリー高見に戻ったおやじは進駐軍相手のクラブ回りを始めました。高校2年の僕はかばん持ちです。初めて見るおやじの芸に『足元にも及ばないな』と思いつつ、気がつくとダンスを練習していました。本当は物書きになりたかったのですがね」
「幸運が重なって何度か舞台に立てたものの、その後4年ほどは仕事にありつけませんでした。ところがおやじは『今は運がないだけ。絶対大丈夫』と息子の才能を信じ切っていた。大人になっても本名で『嘉明ちゃん』と呼んでくれたおやじ。そばにいるだけで安心できる存在でした」
――お母さんの方は。
「これが正反対の性格です。江戸っ子で、言わなくてもいい言葉がぽんぽん出てくる。手先が器用な兄や姉と違って僕は工作が大の苦手でした。それを見た母は『こんなぶきっちょな子、見たことないわ』。この言葉には子供ながら打ちのめされました。後にNHK教育テレビの『できるかな』に出演し、いろんな工作に挑戦しましたが、本当はぶきっちょなんです」
――ご両親が亡くなってかなりになります。
「ある時、おやじが出た古い映画を偶然見ました。生まれる前の昭和初期の無声映画です。その演技の間が『できるかな』の僕とそっくりでびっくりでした。2人でよく行った浅草あたりを歩くと今もふっと思い出します。僕を買いかぶりっぱなしで死んでいったおやじに思わず『ありがとう』と声を掛けています」
[日本経済新聞夕刊2018年9月25日付]
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