指揮台へ上がるには、まず「どんな音楽を奏でたいか」というビジョンが必要だ。そのために指揮者は、楽譜を「勉強」する。作曲家が何を考え、どのような意図でそのフレーズを書いたのか。譜面に込められた情報を正確に読み取ることはもちろん、作曲家が生きた時代や演奏方法など、さまざまな背景についても学ぶ。埋もれるほどの量の資料と格闘することも珍しくない。

引っ張るのではなく対話するリーダー

三ツ橋敬子さんが使用しているスコアブック

さらに、公演本番では「音を鳴らすこと」ができない。ビジョンを楽団員に伝えるためには、日ごろのリハーサルでのコミュニケーションはもちろん、視線、表情、身振りなど、持てるすべてを駆使する必要がある。

「仮に、優れた指揮者の動きだけをまねてみたところで、同じ音が鳴らせるわけではありません。オーケストラをまとめ上げていくために何をすべきか。手探りで進む中で目印となるのは、究極的には『よい演奏をしようとすること』しかないんです」

個性も考え方もさまざまな演奏家たちをまとめ上げていく指揮者。20世紀に活躍したヘルベルト・フォン・カラヤン、カルロス・クライバーなどは強靭なカリスマ性が今でも音楽ファンをひきつける。そのリーダーシップの変容について、三ツ橋氏は次のように語る。

「カリスマ性で引っ張っていく“指導者”タイプの指揮者像は、古き良き過去のものになりつつあります。世界各地でオーケストラが創設された時期こそ、そのモデルは成立しましたが、時を経るにつれ、オーケストラの側にも経験が蓄積されていきました。近年の優れた指揮者たちは、全般的にフレンドリー。演奏家一人ひとりと対等に話をし、その意向をすくい上げて力を引き出していくタイプの人が多いように思います」

例えばスタートアップ企業の経営者と、成長し独自の文化も持つ大企業の経営者。その姿に指揮者をなぞらえれば、コミュニケーションの仕方が異なってくるのもうなずける。

時には楽団員と話し合いながらリハーサルを進めていく三ツ橋氏のスタイルは、まさに「21世紀型」の指揮姿だ。

女性の指揮者が増えてきたのは、ここ20年ほどのことだ。事実、少女時代の三ツ橋氏が憧れたのも「CDのジャケット写真に写るかっこいいカラヤン」だった。女性であるがゆえの苦労はなかったのだろうか。

「指揮者を目指し始めた頃は中高一貫の女子校に通っていたので、『女性が働きにくい職業がある』という認識自体、ありませんでした」

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ヒール靴で指揮、なぜ?
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