「ピアニート公爵」森下唯 アルカンの超難曲に挑む
「ピアニート公爵」名義のインターネット音楽投稿でも知られるピアニスト森下唯(ゆい)氏が、とてつもない超難曲を弾き続けている。フランスの作曲家シャルル・ヴァランタン・アルカン(1813~88年)のピアノ曲群で、この作曲家の作品を集めた通算4枚目のCDを11月に出す。最高難度の超絶技巧を要するといわれる曲の数々になぜ挑むのか。自称「ニート」系のピアニストが、長年埋もれていた作曲家への思いと魅力を語る。
アルカンはまだ一般に知られていない作曲家だ。19世紀前半、ショパンやリストがパリでピアニスト兼作曲家として活躍した時代に、彼らに匹敵するほどの評価と名声を得ていた。ピアニストとしてはリストと並ぶ19世紀最高のヴィルトゥオーゾ(名手)だったといわれる。アルカンが作曲したピアノ曲も、彼の演奏技術を反映して難易度の高いものがそろっている。「もちろん自作の難曲も弾いていたわけだから、非常に弾けたピアニストだったと思う」と森下氏は推測する。
■教授になれず失意のまま引きこもりの後半生
パリのユダヤ人家庭に生まれたアルカンは、自宅が音楽予備校だったこともあり、幼少時から英才教育を受け、10代前半でピアニストとしてデビューし、作曲も手がけた。ショパンやリストと親交を結び、神童ぶりを発揮したという。
脚光を浴びていたにもかかわらず、アルカンが時代から忘れられ、長く埋もれていったのはなぜか。「アルカンは後半生、ほぼ引きこもりの生活を送った」と森下氏は説明し始めた。転機はショパンが死ぬ前年の1848年。「彼はパリ音楽院のピアノ科教授になれず、大きな挫折を味わった」と森下氏は彼が引きこもりになった原因を説明する。
自他ともに認める才能と華々しい実績によってアルカンがフランス音楽の最高学府パリ音楽院のピアノ科教授になるのは当然と思われた。しかしアルカンのかつての弟子マルモンテルが同音楽院の学長に取り入ってそのポストを射止めてしまった。いつの世の組織でも突出した才能には非実力派の妬みと保身が働く。その後、彼は失意のまま88年まで40年も生きたが、「世に打って出る感じの人ではなくなった」と言う。
森下氏はアルカンに関する様々な文献を研究している。「引きこもりの頃にアルカンが書いた手紙の中には、うつ病を明らかに感じさせる場面も出てくる」。もともと非社交的な人だったようだが、ピアノ科教授のポストを逃してからはいよいよ隠遁(いんとん)生活となった。
当時の欧州のキリスト教社会では「彼のようなユダヤ教徒への偏見があっただろうし、ユダヤ人社会の中でも彼は変わり者扱いをされていた」。こうした不遇の後半生が「アルカンを長く埋もれさせた理由だ」と森下氏は指摘する。
森下氏は2015年からアルカンの作品集CD「アルカン ピアノ・コレクション」シリーズを出し始め、現在3枚を数える。11月7日には4枚目のCDを出す。その最新CDに収録する「大ソナタ(作品33)」の第2楽章を森下氏は東京芸術大学(東京・台東)の一室で弾いてくれた。森下氏は筑波大学付属駒場中・高校(筑駒、東京・世田谷)を経て東京芸大を卒業し、同大学院を修了。現在は東京芸大で非常勤講師を務めている。そんな彼が仕事場でピアノに向かった。華麗な超絶技巧がさく裂する大規模なソナタだ。
■ほとばしる叙情と現代に通じる型破りな発想
「最初に楽譜を見たとき、こんなムチャなことをさせるのかと思うかもしれない」と森下氏は前置きした上で、「真面目に取り組めば皆さんも弾けると思う」と話す。しかし、彼が弾く様子を見る限り、とても難しそうだ。非常に速くてスケールの幅が大きいアルペジオ(分散和音)、極端な跳躍、椅子から転げ落ちそうなほどに腕を交差させる奏法など、尋常ではない。
「アルカンの作品には独特の運指があって弾きづらいと、あるピアニストから言われたことがある。確かに独特の指使いの考え方がある気がする」。ある音域のすべての音を同時に鳴らすトーン・クラスター(房状和音)のような現代音楽の手法まで登場する作品もある。当時としては前衛だったはずだ。しかしアルカンの魅力は超絶技巧や前衛奏法を駆使したことにとどまらない。
森下氏は他の作曲家がアルカンについて書いた資料も読みあさった。例えば、「フランスの山人の歌による交響曲」で知られるフランスの作曲家ヴァンサン・ダンディ(1851~1931年)。「アルカンは晩年、小さなコンサートを開くようになった。その際のピアノ練習をダンディが通りがかりに見て、記録を書き残している。リストのようなテクニックはないかもしれないが、内面から湧き出る人間的なものがあったと書いている」。貴重な目撃情報からアルカンの真摯な姿勢と人間味のある音楽性がうかがわれる。
「大ソナタ」は悲劇的なロマンが濃厚に漂う作品だ。音楽そのものが「ロマン派的な内容をしっかり持っている」と森下氏。叙情がほとばしる間奏曲風のフレーズもあり、ショパンのロマンチシズムとリストの交響的な性格を併せ持つ音楽ともいえそうだ。加えてアルカン独自の音楽性もある。それは「当時主流のショパンやリストらロマン派の域を超えた発想と視野の広さだ」と言う。
「大ソナタ」は全4楽章から成り、それぞれが20代、30代、40代、50代の人生を表現している。森下氏がインタビューの日に弾いたのは最も激烈な第2楽章「30代、ファウストのように」。アルカンが挫折した30代、現在30代の森下氏。作曲家と演奏家の思いの丈を表現するのにふさわしい。斬新なテーマと構成を持つ型破りで巨大な作品といえる。
東方のギリシャ音楽、ルネサンス期の古楽にまで関心を持ち、自作に反映させたアルカン。ネット上であらゆる情報を入手できる現代では、こうした幅広い分野の音楽を等価で扱うサンプリングのアプローチはポストモダンの作風としてむしろ普通だ。しかしキリスト教の価値観が中心にあり、個人の内面を重視した19世紀ロマン派の時代には、かなり特異な発想だったはずだ。
■マーラーやサティに続きメジャーになる可能性
森下氏が2017年10月に出した「アルカン ピアノ・コレクション3《風のように》」(発売元:コジマ録音/ALMレコード)には「すべての短調による12の練習曲(作品39)」より5曲が収められている。これまでのCDにも小分けで収録してきた曲集だ。哀愁漂う短調の曲ばかり12曲も続く作品の発想からして非凡だ。中でも「モロッシアのリズムで」「悪魔的スケルツォ」「イソップの饗宴(きょうえん)」といった風変わりな名前の曲は、異国風で悲劇的、異様な存在感を示す音楽でありながら、高貴な美しさにも満ちている。
森下氏がネット上で名乗っている「ピアニート公爵」は「ピアニスト」と「ニート」をもじったネーミング。「公爵」を付けているところに貴族趣味のクラシック音楽への皮肉もうかがえる。ピアニート公爵はゲーム音楽を作曲したり、アニメの曲を編曲し自らピアノで演奏したりして、ネット上で公開してきた。それがマニアックなアニメファンやゲームファンにウケている。
森下氏本人は大学の非常勤講師であるからニートではない。しかしアルカンのような引きこもりや様々な趣味にのめり込む人たちへの理解が十分備わっていることは、こうしたネット上での活動からも分かる。彼自身もマイナーな作曲家アルカンにとことん傾倒するマニアックなタイプだ。一方で音楽への姿勢は柔軟だ。父はSF作家の森下一仁氏。音楽を幅広い視野で捉えるセンスは父親譲りのSF小説の発想力からきているのか。アルカンについても「彼の一歩引いたスタンスが自分の感性と波長が合った」と語る。
マーラー、サティ、コルンゴルトなど、いったんは埋もれた作曲家が再発見され、評価を高め、今では屈指の人気を誇っている例は少なくない。森下氏は「アルカンを本当に理解しているのは自分だけだぞ、という感じもあるので、彼がすごいメジャーになったら悔しいかもしれない」と言って笑う。「でもたくさんの人に聴いてもらえたらと思っている」。巧妙な妨害とハラスメントによって音楽史から抹消されたも同然だったアルカン。しかし優れた才能は必ず歴史に名を刻む。アルカンの天才と不遇に寄り添い、その真価を問い続ける森下氏の熱い演奏活動は、マイナーだったこの作曲家をメジャーな存在に変えつつある。
(映像報道部シニア・エディター 池上輝彦)
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