よみがえる大澤壽人の作曲遺産 日本の若手奏者が快演
クラシックディスク・今月の3点
佐野央子(コントラバス)、福間洸太朗(ピアノ)、山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団
大澤壽人(おおさわ・ひさと=1906~53年)は、ナクソス・レーベルが20世紀に生まれた日本のオーケストラ作品の全貌を解明しようと、2000年に新録音を開始した壮大なプロジェクト「日本作曲家選輯」を通じ、約半世紀の眠りから覚めた作曲家だった。神戸の裕福な家庭に生まれて早くから音楽の才を示し、関西学院の宣教師らの勧めで米ボストン大学音楽学部へ留学、シェーンベルクら当時最先端の作曲技法の洗礼を受けた。1933年には日本人で初めて、ボストン交響楽団のボストン・ポップスを指揮している。さらにパリへ移り、エコール・ノルマル音楽院などでP・デュカス、N・ブーランジェらに学んだ。36年に帰国すると、先端的な作風への無理解や「愛国的ではない」の批判にさらされる。だが指揮や編曲、教育の実績も積みながらクラシック、ジャズ、ポップスを縦横に往来する創作活動が衰えることはなく、あまりの多忙により47歳で急逝するまでの間に作曲、編曲あわせ千曲近い作品を残した。生い立ちから「平成の復活劇」を遂げるまでの詳細は音楽学者、生島美紀子が著した初の本格的な評伝「天才作曲家 大澤壽人」(みすず書房)に詳しい。
大澤復活劇、もう一人の立役者で「日本作曲家選輯」の企画にも深く関わってきた評論家の片山杜秀はサントリー芸術財団「サマーフェスティバル2017」の「ザ・プロデューサー・シリーズ 片山杜秀がひらく『日本再発見』」枠で4回の演奏会の企画を任され、うち1回をすべて、大澤の管弦楽作品に充てた。今回、コロムビアがCD2枚組で発売したのは演奏会当日(9月3日、サントリーホール)のライブ録音。「あの時代に、フランスとアメリカという、二大陸をまたいで学んだ作曲家が他にいただろうか。そのバイタリティーはどこからきたのだろう」と、かねて大澤作品に強い興味を抱いてきた山田和樹が正指揮者を務める日本フィルハーモニー交響楽団とともに出演した。
1曲目の「コントラバス協奏曲」と3曲目の「交響曲第1番」はともにボストン時代の34年作曲。今まで演奏機会に恵まれず、この日が世界初演に当たった。前者はボストン響の常任指揮者だったユダヤ系ロシア人マエストロ(巨匠)のセルゲイ・クーセヴィツキーがコントラバスの名手で、コントラバス作品も作曲していたことにちなみ、願わくはクーセヴィツキーに献呈、同響との仕事に役立てようと考えて書いた作品だった。パリ行きもあって機会を逸し、戦争と戦後の多忙で再び訪米することもないまま亡くなったため、長く埋もれていた。山田は東京芸術大学在学中からの音楽仲間で、現在は東京都交響楽団コントラバス奏者の佐野央子を独奏に起用。佐野は優しく、丁寧に語りかけるように弾いた。実際の演奏会では楽器特有の低音が背後のオーケストラに埋もれてしまいがちだったが、録音ではバランスが補正され、楽曲の真価と独奏の価値がはっきりと、前面に表れた。
続く「ピアノ協奏曲第3番変イ長調『神風協奏曲』」はナクソスがロシアのピアニストと指揮者、オーケストラで録音し、大澤復活の端緒となった作品。「神風」は特攻隊ではなく、朝日新聞社が37年に東京-ロンドン間を祝賀飛行させた航空機の名称だ。38年、大阪・朝日会館で作曲者指揮の宝塚交響楽団と日本在住のロシア人ピアニスト、マキシム・シャピロの独奏で世界初演された。若手から中堅の域に進み、ヴィルトゥオーゾ(名手)としての音の厚みと輝き、踏み込みの良さを増した福間洸太朗が水際立ったソロで圧倒する。第2楽章のサクソフォン独奏には期待の若手、上野耕平が招かれた豪華な編成だ。
そして、長大な「交響曲第1番」は多くの主題が錯綜、ぐるぐる循環する3楽章構成。片山は「近代日本の交響曲の中で、唯一、マーラー的な『混沌美』に類する交響曲といえるかもしれない」と、解説書で指摘する。自身が「迷宮入りの作曲家」だった大澤をある意味、象徴する作品ともいえ、山田と日本フィルの熱演を介して放出されるエネルギー量のすごさ、アイデアの乱反射には、あぜんとせざるを得ない。(コロムビア)
ケヴィン・ヴォートマン(司祭)ほか、ウェストミンスター交響合唱団、テンプル大学コンサート合唱団、アメリカ少年合唱団、テンプル大学ダイヤモンド・マーチング・バンド
ヤニック・ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管弦楽団
2018年8月25日は20世紀の米国が生んだ音楽家、レナード・バーンスタイン(1990年没)の生誕100年記念日に当たった。1957年初演のミュージカル「ウエストサイド物語」の作曲者、58年に米国人で初めてメジャー楽団ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督に就いて以降はクラシック音楽のマエストロの顔が前面に出たが、本人は「純音楽の作曲家」としての評価を一貫して望んだ。3曲の大きな交響曲、「キャンディード」などの音楽劇、「アニバーサリーズ」など洒脱(しゃだつ)なピアノ曲、「僕は音楽が大嫌い」など機知に富んだ歌曲……。幅広い分野の名作を書いたものの、前衛音楽や実験音楽が席巻した時代には「作風が古くさい」とされ、自作自演盤以外の録音にも恵まれなかった。
英国の指揮者、サイモン・ラトルは「没後30年近くが過ぎた今、スタイルの新旧は大した問題ではなくなり、バーンスタインの作曲の良さが素直に評価される機が熟した」と指摘する。ラトルとクリスチャン・ツィメルマン(ピアノ)による「交響曲第2番『不安の時代』」は今年6月のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とのライブ録音(ユニバーサル)が早くも発売されたほか、9月のロンドン交響楽団との日本公演でも披露される。アントニオ・パッパーノも晩年のバーンスタインと関係が深かったローマ聖チェチーリア国立アカデミー管弦楽団を指揮した「交響曲全集」(ワーナー)を一気に完成した。
バーンスタインは自身の同性愛傾向を否定しなかったが、公式カミングアウトに踏み切る時代でもなかった。1975年モントリオール生まれの指揮者、ヤニック・ネゼ=セガンはデビュー時点から自身がLGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)であることを隠さず、12年にフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督に就任した際は「LGBTカミングアウト組で全米メジャー楽団のポストを射止めた第1号」と騒がれた。17年からはニューヨークのメトロポリタン歌劇場音楽監督も兼務する逸材である。
ヤニックのレニー(バーンスタインの愛称)に対する愛情、尊敬の深さ、オペラとコンサートの両分野で若くして築いた実績の豊かさを象徴する新譜として、「ミサ曲」(71年初演)は作曲者生誕100年の「本命」盤の価値を持つ。作品は米首都ワシントンに建設する複合文化施設「ジョン・F・ケネディ・センター」の開場記念として、ジャクリーン・ケネディ夫人からの委嘱を受けて書かれた。ラテン語のミサ典礼文とバーンスタインのオリジナル(英語)などを交えたテキストは神への懐疑を経て、現代の人々それぞれの新たな信仰の構築に向かう。背後にはベトナム戦争の泥沼化があり、「私たちに平和を」と訴える。ダンスや演劇の要素を加味した総合芸術としての「ミサ曲」を目指したバーンスタインは、ロックやフォーク、ブルースなど米国社会の様々な音楽の融合も試みた。
ベトナム戦争終結と同じ年に生まれたカナダ人のネゼ=セガンは、「同時代」ではなく「過去」の文化遺産としてバーンスタインの「ミサ曲」に向き合う。どこまでも磨かれた管弦楽、明快に響く言葉の端々から時代を超えたバーンスタインのメッセージ、自由にジャンルを横断した音楽家の巨大なスケールが表れ、作品が「古典」の永続性を獲得した実態を雄弁に立証している。(ユニバーサル)
高田泰治(フォルテピアノ)
高田泰治は2002年、神戸市内で開いたデビュー公演の時点からチェンバロ、フォルテピアノ、モダン(現代の)ピアノと、鍵盤楽器の発達史に沿った3種類の楽器を弾き分けていた。ドイツに拠点を得て以降、楽曲構造や時代背景などに対する考察と解釈の力を一段と深め、作曲家が「なぜ、この音を、この楽器に与えたのか」を真正面から探求する演奏家へと、着実に変貌してきた。
今回はベートーヴェンが30歳を迎える1800年前後に書いた3作品をほぼ同時代の1807年、オーストリア・インスブルックのヨハン・ゲオルク・グレーバーが作ったオリジナルのフォルテピアノで弾いた。ペダルは足ではなく、ひざで操作する。高田によれば「鍵盤の沈みが浅い上に、ハンマーも小さく軽い。すべての音域を均一の音色で弾くのは不可能」という楽器だ。不ぞろいで時に唐突な音の連続が、いつしか味わい深い「語り」に思えてくる。
自身が鍵盤演奏の名手であったベートーヴェンは、絶えず最新モデルの楽器を取り寄せ、その性能を極限まで引き出す、あるいは「次世代モデルが可能にする領域」まで踏み込んだ音符を新作に記した。グレーバーの名器を操る高田の演奏からは、ベートーヴェンと楽器の格闘の日々、当時最新の性能を駆使した実験的な発想などが鮮やかに浮かび上がる。モダンピアノでは感知できない「葛藤」のあれこれを追体験しながら聴くとき、今では子どもの発表会でも頻繁に流れる「悲愴」や「月光」も、実は大変なチャレンジの産物だったのだなあと思い知る。想定外の面白さに満ちたアルバムだ。(ナミ・レコード)
(敬称略)
(NIKKEI STYLE編集部 池田卓夫)
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