ピアニスト綱川千帆 バルトークで奏でる欧州への郷愁
英国を拠点に活動してきたピアニストの綱川千帆さんが帰国しCDデビューした。欧州への郷愁がテーマだ。ベーラ・バルトーク(1881~1945年)の「ルーマニア民族舞曲」を中心にCDと演奏について語る。
10歳で才能を見いだされ、12歳で渡英。20世紀ピアノ界の巨匠アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ氏(1920~95年)の一番弟子ノレッタ・コンチ氏に師事したという英才教育の申し子。英国王立音楽院在学中に数々のコンクールなどで受賞した。英国王立音楽大学修士課程を修了後も英国に残り、滞在期間は20年に及んだ。ロンドンの名門ウィグモアホールをはじめ欧州各地で演奏活動を続け、2015年に帰国したという逸材だ。
今は栃木県に在住し、地元でピアノを教えたり演奏会を開いたりしている。東京にも生徒がいるそうで、「今日はピアノを教えるために出てきた」と話す。「新幹線で50分だからそんなに遠くは感じない」。そう言いながら東京・銀座のヤマハ銀座ビル別館の一室で語り始めた。
■英国滞在20年への郷愁を込めたデビューCD
「ずっと日本にいなかったから人脈も足場もない」と綱川さんは言う。しかしコンサートや音楽祭に引っ張りだこだった欧州での実績を見れば、埋もれさせるわけにはいかないピアニストであることは確かだ。そんな中、6月7日にリリースされたのが彼女のデビューCDアルバム「ノスタルジア」(発売元 コジマ録音/ALM RECORDS)だ。
「ノスタルジア(郷愁)」というタイトルは「欧州への郷愁」をテーマにすることから名付けたという。「20年ぶりに帰国し、大きな環境の変化から生活も練習も落ち着かない期間があった。その時期に、(欧州への)ノスタルジックな気持ちというのは、今でなければ上手に表現できないのではないかと思った」と話す。そんな思いを抱いていたときに「頭の中に流れてきたメロディーが今回、CDに収録した曲になっている」。欧州での演奏家としての経験に郷愁が加味されたプログラムだ。
収録した曲は、前半がスカルラッティのソナタ2曲、ベートーベン「バガテル」、プーランク「間奏曲」、ラヴェルの「鏡」から「悲しい鳥たち」。バルトークの「ルーマニア民族舞曲」をはさんで、後半はプロコフィエフの大作「束(つか)の間の幻影」を収めている。古典から現代まで、西欧から東欧、ロシアまで、彼女のレパートリーの広さを印象付ける。この中でバルトークの「ルーマニア民族舞曲」には「ルーマニアへの演奏旅行の思い出が詰まっている」と言う。
「大学院のときにデュオを組んでいた人がルーマニア出身だった。そんな縁からルーマニアでの演奏会や音楽祭に何度も招かれて行った」。首都ブカレストだけでなく、「シビウやブラショフなどトランシルヴァニア地方にも行く機会があり、そのときのコンサートでバルトークの『ルーマニア民族舞曲』のバイオリンとピアノのデュオの曲を演奏した」と振り返る。
■現代音楽への扉を開いた民謡や農民音楽
バルトークは20世紀を代表するハンガリーの作曲家。第2次世界大戦中に亡命し、米ニューヨークで没した。出身地のナジセントミクローシュは現在ルーマニア領で、スンニコラウ・マレと呼ばれる。ハンガリーとセルビアの国境に近い小さな町だ。バルトークが生まれた当時、その町はオーストリア=ハンガリー二重帝国の中のハンガリー王国にあった。現ルーマニア領のトランシルヴァニア地方も当時はハンガリー王国に属していた。
多民族国家のオーストリア=ハンガリー帝国に生まれたバルトークは中・東欧を中心に各地方を旅行し、民間伝承の音楽を録音・収集した。相棒としてもう一人のハンガリーの国民的作曲家ゾルターン・コダーイがいた。ライフワークとして民族音楽を研究し、自作に取り込むことによって、バルトークは西欧の伝統的な芸術音楽とは異質の新しい作品を生み出した。現代音楽への扉を開いた重要な作曲家の一人と見なされる理由だ。綱川さんのCDでは「ルーマニア民族舞曲」と「民族」の表記だが、国単位の民族ではなく、各地域に伝承する民謡や農民音楽というニュアンスならば「民俗」と表記してもいいかもしれない。
「ルーマニア民族舞曲」は「トランシルヴァニア地方の民謡や踊りの音楽をモチーフに書かれている」と綱川さんは説明する。6曲から成り、どれも数十秒から1分台と非常に短い。いずれの曲もエキゾチックな印象を聴き手に与え、素朴な踊りの旋律が懐かしい郷愁の気分を呼び起こす。
「ブカレストからトランシルヴァニア地方へと向かうと、馬車がたくさんのスイカを積んで走っていたり、ロバや鳥、家畜がいたりする風景が広がる。結婚式に呼ばれたときは、民族楽器のバンドが演奏し、皆さん朝方まで踊っていた。この曲を弾いていると、そうしたルーマニアの日常生活の情景を思い出す」と綱川さんは話す。
■遠い昔の思い出を即興風に描く音画の数々
ブラームスの「ハンガリー舞曲集」やドボルザークの「スラヴ舞曲集」をはじめ、バルトーク以前にも中・東欧の民謡やロマの音楽などをモチーフにした楽曲があったと思える。これについて綱川さんは「19世紀の初頭から民族(民俗)音楽は作曲家の間で注目されていた。ブラームスの『ハンガリー舞曲』やリストの『ハンガリー狂詩曲』はハンガリーの民族音楽をモチーフにしているとみられていた」と説明を続ける。しかし「バルトークが各地の音楽を採集し研究した結果、民族音楽だと当時思われていたものは全く違うものだったと分かった」のが実情だ。
ウィーンやパリのような大都会で聴きやすく加工され、芸術音楽と融合して洗練された曲は本物の民族音楽ではなかった。バルトークは各地に息づく民謡や農民音楽を地元の住民にそのまま歌ってもらったり弾いてもらったりして採集し、従来の芸術音楽に衝撃を与えうる素材を手にした。彼の一連の収集・研究については、6月に出た「バルトーク音楽論選」(ベーラ・バルトーク著、伊東信宏・太田峰夫訳、ちくま学芸文庫)に詳しい。
バルトークの作品を弾く綱川さんのピアノは研ぎ澄まされた音色を鳴らす。音の強弱からテンポ運びの変化まで、繊細なグラデーションを加えながらも、どの音も芯の強い鋭敏さを示す。巨匠ミケランジェリ直系の流派を思わせる、精錬をきわめたピアノの演奏法ともいえそうだ。
彼女のデビューCDには、バルトーク作品に限らず、民族音楽とは関係ないはずの古典派の楽曲でもエキゾチズムやノスタルジーを感じさせるところがある。1曲目のスカルラッティ「ソナタニ短調K.213」は非常に独特だ。J・S・バッハ、ヘンデルと同じ1685年生まれのバロック後期から古典派時代にかけての作曲家の作品だ。にもかかわらず、彼女はロマン派の楽曲であるかのように強弱や緩急を自由に加えて弾く。古典作品の形式美とは次元の異なる哀愁のロマンチシズムにあふれている。
数十秒から2分台の小品20曲から成るプロコフィエフ「束の間の幻影」は圧巻だ。印象主義とも神秘主義ともいえる、はかない夢の瞬間を描く音画の数々。弱音のかすかな響きまで繊細に鳴らしていく。
ノスタルジアのコンセプトでまとめ上げたアルバムは、遠い昔の思い出を音の絵として即興風に浮かび上がらせる。音が即座に減衰するピアノの特性を知り抜いた表現ともいえそうだ。多彩な小品をちりばめたアルバムから次々に浮かび上がる詩情。20年間の欧州生活で培った彼女の演奏芸術は郷愁のアルバム1枚にとどまるものではない。
(映像報道部シニア・エディター 池上輝彦)
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