放送作家・デーブ・スペクターさん 平凡が幸せと母
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は放送プロデューサーで放送作家、タレントのデーブ・スペクターさんだ。
――今年2月、最愛のお母さんが亡くなりました。
「93歳でした。父は僕が17歳の時、天に召されました。母の死後、ツイッターに母と自分の当時の気持ちについて『4歳、お母さんは何でも知っている。16歳、お母さんなんかいなくていい。25歳、お母さんに相談しよう。45歳、お母さんだったらどうするんだろう』と投稿しました」
――年齢を重ねるにつれ母の存在の大きさに気づかされたというデーブさんに共感の声が多く寄せられました。
「英語でおふくろさんという表現はありませんが、そんな人でしたね。大きな愛で僕を包んでくれました。母は若い頃、バレエのダンサーになろうとしたが、結局はシカゴの百貨店の婦人服売り場で店員として一生懸命働きました。ひと言でいうとノーマルな人。平凡なくらしを好んでいたし、本人も『ノーマルは幸せ』と言っていました」
――デーブさんはシカゴで10代の頃、友人の日系人を通じて漫画などの日本文化に夢中になっていきます。
「当時、米国で日本は未知の国。それゆえ母は日本語学習に夢中になる僕を見て心配していたようです。僕がテレビCMの子役で出るようになり、その道での成功を願いサポートもしてくれていましたし。でも将来については僕の自主性を尊重してくれました。米国で親は子の進路についてあれこれ言わないのが一般的です」
――1980年代前半から日本に住み、妻の京子さんと事務所設立。浮沈の激しいテレビ界で活躍してきました。
「出演した番組を録画して母にビデオをよく送りました。それを見て日本で成功したのねと、大変喜んでいました。ステージママだったのでショービジネスは出演することが大事だと分かっていたのです。やがて母も日本びいきになったし、母が来日した際、家族で歌番組にも出演したんですよ」
――仕事が多忙を極め、お母さんと会うのも難しくなりました。
「母は晩年、1年間をシカゴとマイアミでそれぞれ半年くらいに分けて暮らしていました。母とはマイアミで会っていたのですが、その頻度も1年に1回か2回。やがて2年に1回になりました。最後の電話は今年に入ってから。記憶力が落ち体力が衰えた母は電話でほとんど声を出すことができませんでした」
「母と最後に会ったのは昨年の12月初旬です。そのとき、母は『外出したい』と言いました。母のお世話をする姉と一緒にマイアミの商店街にあるヘアサロンに行きました。久しぶりだったのか、母は髪の毛をカットして大喜び。その姿を写真に撮りました。この何でもない平凡な日常を母と味わえて良かったと思います。日本でいう親孝行ですね」
[日本経済新聞夕刊2018年8月14日付]
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