日経ナショナル ジオグラフィック社

2018/8/11

ジョゼリン氏は、現在マウスで行われている研究が、いずれは統合失調症やアルツハイマーといった神経疾患の患者の治療に使われることを期待している。

とは言え、患者が近所の病院に歩いて行って、パッと記憶を消してもらえるようなことにはそうすぐにはならないとラミレス氏は言う。

マウスでの実験には、脳に直接ブルーライトを照射するなどの技術が使われている。つまり、マウスの頭蓋骨を切断して神経組織をむき出しにするということだ。こうした技術が人間に使われる見込みは薄いだろう。将来の治療では、人間の皮膚を貫通する赤外線が使われるだろうとラミレス氏は言う。一方のジョゼリン氏は、化学物質を注入あるいは摂取する形が取られる可能性が高いと考えている。両者とも、こうした技術の実現までには数十年はかかるという見通しだ。

マウスの頭蓋骨に直接光を照射することによって、記憶を思い出させられる(PHOTOGRAPH BY MONIKA SHPOKAYTE)

技術的に可能でも、残る倫理問題

いつの日か人間の記憶を書き換えられるようになるとして、その治療を受けられるのはどんな人間だろうか。それは、多額の治療費をまかなえる人に限られるだろうか。子供の場合はどうなるだろうか。また、重要な目撃者や被害者が犯罪の記憶を持たなくなることは、司法制度にとって不利益にならないだろうか。

米ニューヨーク大学の生命倫理学者、アーサー・カプラン氏が提示するこうした疑問は、まだ人間の治療に用いるほど技術が成熟していない現在においても、一考する価値があるだろう。

「技術が実用化されるよりもはるか前に、こうした倫理的な疑問について熟考すべきだとわたしは強く信じています」とカプラン氏は言う。

記憶の操作に関して、カプラン氏は、治療を受けることが許可される最低限の条件について、科学者や国会議員が考える必要があると語る。誰もが受けられるようにするのではなく、深刻なPTSDに苦しんでいたり、ほかの治療の効果が上がらなかったりした患者に限るようにすべきだというのが彼の意見だ。

たとえば軍がPTSDに苦しむ退役軍人にこの技術を用いるとしたら、戦場に戻る兵士の記憶を書き換えることは許されるべきだろうか。

神経科学の研究が進むにつれ、こうした倫理的なジレンマについて考える機会も増えると研究者たちは言う。

記憶操作の技術は善でも悪でもない。たとえば水のように、それをどうやって使うかが問題だと、ラミレス氏は考えている。

「水は体を潤すためにも使えるし、水責めの拷問にも使えます。水が善にも悪にも使えるなら、何であっても同じように使えるでしょう」

「わたしはこの技術に完全に反対というわけではありません」とカプラン氏は言う。「ただし研究は、慎重に慎重を重ねながら進めるべきでしょう」

(文 SARAH GIBBENS、訳 北村京子、日経ナショナル ジオグラフィック社)

[ナショナル ジオグラフィック ニュース 2018年7月19日付]