日経ナショナル ジオグラフィック社

2018/8/11

ポジティブな楽しい記憶は、オスのマウスをメスのマウスと一緒に1時間、ケージの中に入れておくことによって形成される。一方、ネガティブな記憶は、別のケージで足に短い電気刺激を与えることによって形成される。マウスがそれぞれのケージで体験と刺激を関連付けて覚えたら、次は、そうしたポジティブあるいはネガティブな記憶痕跡と関わる細胞群を、研究者が操作できるような手術をマウスに施す。

マウスはこの部屋の中で、ポジティブあるいはネガティブな記憶を引き出す環境にさらされる(PHOTOGRAPH BY JOSEPH ZAKI)

この実験によってわかってきたのは、ネガティブなケージの中にいるマウスの脳を刺激してポジティブな記憶を活性化させると、マウスが以前ほど強く恐怖を感じなくなるということだった。この記憶の「再教育」は、マウスの心的外傷を消すのに役立つのではないかと研究者らは考えている。

ただし、そうした元々ある恐怖の記憶が完全に上書きされるのか、それとも抑制されるだけなのかはよくわかっていない。

「ワード文書で例えるなら、記憶を新しいドキュメントとして別に保存したのか、元の文書を上書きしたのかがわからないということです」と、チームの一員であるステファニー・グレラ氏は言う。

カナダ、トロント大学の神経科学者、シーナ・ジョゼリン氏は、これとは別の技術を用いて、マウスから恐怖の記憶を完全に消し去ることに成功した。ジョゼリン氏のチームは、ある記憶痕跡と関連している細胞群を特定した後で、それらの細胞内にあるタンパク質が、マウスが通常は抵抗力を持っているジフテリア毒素の影響を受けやすいようにした。毒素を注入されると、それらの細胞群は死滅し、そのマウスは恐怖を感じなくなった。

「死滅させたのはごくわずかな数の細胞ですが、記憶は事実上、消え去りました」とジョゼリン氏は言う。

実験開始前、下準備としてマウスには蛍光タンパク質の遺伝子を含むウイルスが注入され、脳に光ファイバーが埋め込まれる(PHOTOGRAPH BY STEPHANIE GRELLA)

人への応用は数十年後か

ラミレス氏もジョゼリン氏も、マウスを使った実験は基礎的なものだと強調しつつも、これが人間の治療に生かされる日はいずれやってくると考えている。

「トラウマ的な記憶はポジティブな情報で書き換えることができます」とラミレス氏は言う。たとえばPTSDやうつ病に苦しむ人々は、記憶を入れ替えて、痛みを伴う思い出に極端に感情的な反応をせずに済むようになるだろう。

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技術的に可能でも、残る倫理問題