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食べ損ねた握り飯と祖母の3つの教え 大和ハウス会長

大和ハウス工業会長 樋口武男氏(下)

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NIKKEI STYLE

人生の転機で重大な決断を下したとき、「あれ」を食べていた。「あれ」を口にしたから、苦しい時代を乗り越えられた……。そんな経営者や識者の「出世メシ」の話題に耳を傾けよう。前回に引き続き、大和ハウス工業の樋口武男会長に聞く。

――売上高4兆円を目前にした大和ハウスを牽(けん)引する樋口会長ですが、子供時代はおばあちゃん子だったそうですね。

私は兵庫県尼崎市の出身です。子供のころは両親と父方の祖母、弟や妹と暮らしていました。明治生まれの祖母は厳しかったですね。4歳のある日、おねしょした布団を丸めて隠し、遊びに出たことがありました。隠し事が祖母に発覚し、私は納屋の柱に荒縄で縛られたのです。空腹のまま縛られている私をかわいそうに思った母が、握り飯をこっそり持ってきてくれました。それがまた祖母に見つかってしまった。結局、口にすることができなかった握り飯の鮮烈な思い出です。

そんな祖母の教えは(1)うそとごまかしはいけない(2)人に迷惑はかけない(3)闘ったら勝て――の3つでした。

こんなエピソードがあります。小学生のころ、中学生と喧嘩(けんか)して泣いて帰ったことがあります。祖母が負けた私に怒って、喧嘩の続きをしてこいと、家に入れてくれない。食事もとれない。仕方がないからもう一度出向くと、向こうの母親が出てきた。すると後を追ってきた祖母は「子供の喧嘩に親が出るな」と一喝。先方の母親が「そっちもやないの」とやり返してくると、「こっちは親とちゃう。ばあちゃんや」。これが実話だから、すごい祖母でした。

私が中学校に入学したころ、祖母は体調を崩すようになりました。ある日、私と弟を枕元に呼ぶと、唐突に「あと3日で死ぬ」。本当にその3日後に息をひきとったのです。火葬場で骨揚げをしたら、骨がぼろぼろに崩れてつかめないほど。苦しかったでしょうに、最期まで弱音をはきませんでした。

生前の祖母は非常に厳しい人でしたが、私には愛情も人一倍感じられたんですよ。祖母の3つの教えは今も、心に強く刻み込んでいます。

――祖母の教えを守りながら、全力投球し続けるうちに、入社38年後の2001年には、大和ハウス社長に就くという"宿命"が待ち受けていました。この前後から、オーナー(大和ハウス創業者の石橋信夫氏、社長や会長を歴任)と、寝食をともにする日々が始ったとか。

00年のある日、関連会社の大和団地に転出して社長だった私は、オーナーから「樋口君、大和ハウスの非常勤取締役に就いておけ」と言われます。そこで大和団地の社長を続けたまま、大和ハウスの非常勤取締役になりました。後々、これが非常に重要な措置だったと気付かされるのです。

しばらくして、またもやオーナーから呼び出され、今度は「樋口君、大和ハウスと大和団地を合併させよう。大和ハウスに帰ってこい」。翌01年、大和ハウスは大和団地と合併し、私は新生・大和ハウスの社長に就くことになります。唐突な非常勤取締役の就任は、この布石だったのです。

合併方針が決まると、オーナーからは「合併前に、大和ハウスの全国の事業所、工場を回ってこい」との命令。「大和ハウスの様子は、古巣ですから分かっています」と言い返したのですが、「1兆円企業の社長になるというのは、君の休みがなくなるということや」と譲らない。こうして全国を回ると、知っているつもりの古巣でも、気付きがあるから不思議です。オーナーは「スピードは最大のサービス」と繰り返していました。久しぶりに戻った古巣は、大企業病かと思われる面もありました。新生・大和ハウスの社長に就くなり、組織や制度をいじり、数々の改革も断行、スピード感を失わない経営に取り組んできたつもりです。

オーナーは晩年、石川県能登にある石橋山荘で静養していました。03年に亡くなるまでの4年間、私は毎月のように、泊まりがけで訪問しました。いわば2人だけの役員会です。朝、大阪から特急に乗って、現地には昼ごろ到着。こちらからは足元の経営状況を報告したり、今後の事業展開について相談したり。一方のオーナーは、自分でびっしり書き込んだメモを見ながら、私に次々と指示を飛ばします。

昼食や夕食は、通いで家事を頼んでいた人が作ってくれました。一般の家庭で出るようなおかずが食卓に並びます。オーナーは魚料理が好みだったと記憶しています。ともに下戸ですので、アルコールはなし。さっさと食べて、また仕事の話に戻ります。

「樋口君、10兆円企業にしてくれるやろな」。オーナーとは、2055年に迎える100周年の時点で売上高10兆円を達成する夢について、さんざん語り合ったものです。未明まで続くこともありました。オーナーの山荘で寝食をともにした記憶が、私にとっての大きな財産です。その後、オーナーの遺言に従って、04年に私は会長に就きました。総合生活産業として、大和ハウスは「あすふかけつの」(安心・安全、スピード・ストック、福祉、環境、健康、通信、農業の頭文字)をキーワードに、事業拡大を続けています。増収増益が、大和ハウスに課せられた宿命なのです。

――大和ハウスで今日まで社長、会長を務めてきたわけですが、それもそれ以前に大和団地社長として再建に取り組んだ日々があったからではないでしょうか。

1963年に大和ハウスに中途入社した私は、その後、91年には専務に昇格しました。当事は事務所棟、工場、倉庫、病院など非住宅系の事業を急拡大させ、脂が乗っていたころです。オーナーからいきなり「大和団地に行って、社長をやってくれ」と通告されたのです。思いもしない出来事でした。

宅地開発会社だった大和団地は、バブル崩壊の痛手を受けて過大な有利子負債に苦しんでいました。いったんは断ったものの、重ねて「君の宿命やと思うてくれ」と言われたら、引き受けないわけにはいきません。93年、大和団地の社長に就任。55歳でした。自分にとっては大きな"宿命"でした。

――大和団地行きは、周囲には片道切符と思われたとのこと。実際に、行ってみていかがでしたか。

オーナーからは「まず大和団地の社長就任前に、会社が保有するすべての土地を見てこい」と厳命されました。そこで就任前の2カ月間、全国を飛び回ったのです。時間がないので、北海道や九州にも日帰りで赴いたことがたびたびです。売れ残った土地は何か問題があるもの。損切りしても現金化を進めることにしました。忙しくてろくに食事をとれないこともありましたが、このときの体験から、現場主義の大切さが、改めて身にしみて感じられました。

大和団地社長に就任時、メディアの取材を受けると、「まずリストラですね」と問われたものです。経費削減と人減らしをするのだろう、という意味です。でも、そんなつもりはありませんでした。後ろ向きな経費削減を進めたら、優秀な人材から辞めていくでしょう。本来の意味での事業の再構築を進める考えだったのです。

具体的には、大規模な宅地開発からは手を引き、分譲マンションと木造戸建て事業の強化に取り組むことに。必要な土地の購入は私が即断即決。ハンコが10個も押された稟議(りんぎ)書を待っていては遅すぎます。現地に赴く際も部下を連れず、たいてい一人で走り回りました。

当事、私は「サナギ(SANAGI)からのスタート」とうったえました。サナギとは、スピーディーに、明るく、逃げずに、あきらめずに、ごまかさずに、言い訳をせず、の頭文字をアルファベットで並べたものです。事業を拡大するのですから、人減らしどころか、逆に、社内に対して積極的に人員を採用するよう指示しました。

当時の私はヘビースモーカー。たばこを吸おうと社内の喫煙コーナーに行くと、社員らがこそこそ逃げていく。「待たんかい」と飛び戻して、話しかけているうちに、社員らも寄ってくるように。煙をくゆらせながら雑談しているうちに、社員の本音を耳にできるようになりました。そうこうするうちに事業が軌道に乗り、有利子負債を削減し、復配にこぎつけたのです。

――オーナーは大和団地をどう再建するか、じっくり見ていたようですね。

大和団地での奮闘が、2001年の新生・大和ハウスの社長就任につながったのでしょう。実は、大和団地社長に就任して間もなく、施主だった病院の経営が行き詰まる事件が起きました。大和団地はこの病院に対して多額の債務保証をしていたのです。そんな保証の話は事前に聞かされていませんでした。そこで大和ハウス本社のオーナーに資金繰りを相談に行ったのですが、「それを解決するのが、社長のお前の仕事やないか」と突き放されてしまいます。そんな理不尽な。頭に来た私は「もう結構です」と飛び出してしまいました。

眠れぬ夜を過ごし、翌朝、冷静になった私は謝罪しに、もう一度大和ハウス本社を訪ねました。朝7時30分に着き、オーナーの出社を待とうとしたら、秘書が「もうおみえになっています」と言うではありませんか。こちらの行動をすっかり見透かされていたわけです。オーナーに非礼をわびたところ、「うまいことやれよ」との返答。これでオーナーとの関係は修復したものの、肝心の資金繰りには妙案が浮かびません。銀行の取締役に直談判するなど、紆余曲折を経てなんとか事態を収拾することができました。

ひとつひとつを振り返ってみると、すべてオーナーに試されていたのだと思います。オーナーは言い訳が大嫌いでした。弁解を始めた幹部には、決まって「つならんことを言うな」と叱っていましたから。

――記者は一時期、樋口会長の自宅に、取材のため頻繁にお邪魔しました。

自宅の話題になったところで、妻のことを話して終わりにしましょう。かつて新卒で入社した鉄鋼商社を辞めて、大和ハウスに転職する際、すでに妻のお腹には子供がいました。当事、転職話を妻にしたところ、「転職してうまくいかなくても、愚痴だけは口にしないで」。だから苦しいときも、家で愚痴をこぼしたことがありません。上司である役員から執拗な嫌がらせを受け、涙をのんだときでもです。

長年、仕事ばかりで家のことはほとんど妻任せ。今でも出張や会食で、なかなか家で過ごす時間がありません。それでもやっぱり妻のつくる食事は、自分にとって安らぎです。少し甘口で、肉がたくさん入ったカレーライスなどはたまらないですね。

樋口武男(ひぐち・たけお)
1938年兵庫県生まれ。61年関西学院大学法学部卒業、鉄鋼商社に入社。63年大和ハウス工業に転職。以来、山口、福岡、東京と転勤を経験したが、すべて家族を帯同した。家族は一緒に暮らすもの、という強い思いからだ。大和ハウス専務を経て、93年大和団地社長。2001年大和ハウスと大和団地の合併に伴って新生・大和ハウスの社長就任、04年から会長となり現在に至る。

(村山浩一)

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