創業者がくれた出世だんごと決断力 大和ハウス会長
大和ハウス工業会長 樋口武男氏(上)
人生の転機で重大な決断を下したとき、「あれ」を食べていた。「あれ」を口にしたから、苦しい時代を乗り越えられた……。そんな経営者や識者の「出世メシ」の話題に耳を傾けよう。初回は、大和ハウス工業の樋口武男会長の登場だ。社長就任時に売上高1兆円強だった同社を、4兆円目前まで成長させた樋口会長の出世メシとは。
――1963年に大和ハウスに入って以降、幾度もの転機があったとか。そのなかで特に印象的なのが、最初の支店長就任、関連会社だった大和団地社長就任、そして大和ハウス社長就任という3度の"宿命"です。食にまつわるエピソードを交えて教えてください。
まず、支店長就任の話から始めましょう。74年、36歳で山口支店長となりました。支店は70人強の陣容。鉄拳制裁も辞さずで臨んだところ、部下らの心が離れてしまいました。若さにまかせて、やり過ぎたのです。本当につらい日々でした。
そんなおり、当事社長だったオーナー(大和ハウス創業者の石橋信夫氏、社長や会長を歴任)が、山口まで視察にやってきたのです。一緒に地元の取引先にあいさつ回りするついでに、立ち寄ったのが瑠璃光寺。オーナーが売店でだんごとアイスクリームを買ってくれ、「樋口君、一緒に食べようや」。ベンチでほお張ったその味から、オーナーの思いやりと優しさがじわりと身に伝わってきました。これが後々の出世の原動力になったのだとしたら、「出世だんご」でしょうか。
その夜、オーナーが宿泊する温泉旅館までお供すると、「樋口君、晩飯を食っていけ」。オーナーも私もともに下戸です。旅館にあがると、2人で食事をさっさと済ませました。食事の合間に交わした言葉の数々は、おいしかった味の記憶とともに心に刻まれています。食後、帰ろうとすると、今度は「樋口君、一緒に温泉に入ろう」。オーナーの背中を流しているうちに、つい口をついて出たのが「こんな孤独なものだとは思っていませんでした」という愚痴です。すると、オーナーは「長たる者、決断が大事やで」とぽつり。私の問いかけへの直接の答えではありませんでしたが、心にずしりと響きましたね。
――食事の記憶と、オーナーがかけてくれた言葉。その後、何かが変わったのですか。
まず私の姿勢が変わりました。夜遅くなっても、部下が戻ってくるまで支店で待ち続けることに。そして部下の発言に十分耳を傾けたうえで、決断するよう心がけました。社員たちの心が、徐々に戻ってくるように感じられました。支店の成績も上昇に転じ、ついに社員1人当たりの売上高、利益とも全国トップになったのです。オーナーは多弁な人ではなかったですが、何もかも見抜いたうえで、私に言葉をかけてくれたのでしょう。
オーナーはその後も、大切な局面で言葉をかけてくれました。オーナーの晩年、「あのときの言葉はこういう意味だったんですね」と問いかけてみました。すると「気がつくやつと、気がつかんやつがおる」という短い返事。いったい私のどこを見て、評価してくれたのか。私には3人のオヤジがいると常々言っています。そのうちの1人がオーナー。残る2人は実父と、福岡支店長時代にお世話になった地元の方です。
――今年80歳を迎えた樋口会長は、食と健康にこだわりを持っていますね。
体力が衰えると、気力まで衰えるものです。食と健康は大事ですね。今年4月、大和ハウスの執行役員以上とグループ会社の会長・社長ら100人近い参加者がザ・リッツ・カールトン大阪に集まって、傘寿のお祝いを開いてくれました。この場で「やっと元気になりました」とあいさつし、攻めの経営を改めて訴えました。
実は昨年、何だか分からないけれど、気分が晴れない状態が続いていました。「80の山」とでもいうのでしょうか。80歳を前にして、肉体的・精神的にも疲れがたまっていたのでしょう。それが今では、もやもやがうそのように晴れ、心身ともに元気です。そんなタイミングで開かれた傘寿の会は、100人近い幹部らと楽しく会食するうれしい出来事でした。
オーナーは生前、「停滞は後退や」と我々に厳しく戒めていました。私が大和ハウス社長に就任した2001年当時、1兆円強だった売上高が、現在では4兆円超えが目前まで迫っています。オーナーとの生前の約束通り、100周年を迎える55年には10兆円企業となるためにも、停滞は許されません。建設や不動産、住宅業界を見てもプレーヤーがまだ多すぎるという印象です。各分野でリーディングカンパニーとして生き残るのは、せいぜい2~3社でしょう。
傘寿の会で幹部らを激励したように、今後もM&A(合併・買収)を活用し、国内外の事業を強化する攻めの経営を貫きます。同時に「世の中に喜んでもらえる企業にならんとあかん」というオーナーの教えを忘れないように、18年度末までにオーナーの胸像、立像を全国の事業所や工場、研究所などに計101体設置する計画です。
――そんな心身ともに充実した現在、どんな生活を送っていますか。
食べ物は甘めの味付けが好み。好きな料理は肉ですね。大阪だと行きつけは、会社の近くにある焼き肉レストラン「明華園」や「ステーキハウス大和」。明華園は焼き肉もいいけれど、テッチャン鍋がまた絶品。自分で調味料で味付けして楽しめます。大和だとヒレですね。昔ならサーロインでしたが、今はミディアムレアのヒレを200~250グラム注文します。
下戸なので酒はやらず、肉を食べてから、カラオケで演歌を熱唱し、ストレスを発散するのです。ちなみに40歳のころでしょうか。医者から「あたなは練習してもアルコールには強くならない体質です」と宣告されました。だから酒を飲むことはあきらめています。
食と健康は表裏一体ですね。しばらくやめていたトレーニングも再開しました。自宅や会長室で、ダンベルや腹筋運動などで鍛えています。スポーツクラブにも通っています。おかげで1年前に83キログラムあった体重が、いまでは74~75キログラムまで絞ることができました。長年吸っていたたばこもやめたんですよ。人間も企業も、健康で健全でないとね。
――振り返ると、大和ハウスは中途入社でした。
1961年に大学を卒業して、最初に入ったのは大阪にあった大源という鉄鋼商社です。大源の創業者、下坂直美社長は人格者で、かわいがってもらいました。でも、残業はなく待遇もよい職場が、ぬるま湯に感じられました。「30歳で創業経営者になりたい」という夢を持っていた私には、この環境が物足りなくなってきたのです。
そんな折「モーレツ企業、大和ハウス」という雑誌記事を読み、これだとひらめきました。ちょうど新聞で、歩合セールスの求人広告を見つけたので、大和ハウスに出向くことに。こちらが正社員で雇ってくれと粘ると、人事は「歩合セールスの求人やで」と困っていましたが、結局、無事入社にこぎつけました。63年のことです。
その頃すでに結婚していました。入ってみると社長だったオーナーが一度ならず、「樋口君、この女性はどうや」と、私に見合い写真をすすめてくれるのにびっくり。そのたびオーナーに「私はもう結婚してまっせ」と、断りを入れたことは言うまでもありません。
1938年兵庫県生まれ。61年関西学院大学法学部卒業、鉄鋼商社に入社。63年大和ハウス工業に転職。以来、山口、福岡、東京と転勤を経験したが、すべて家族を帯同した。家族は一緒に暮らすもの、という強い思いからだ。大和ハウス専務を経て、93年大和団地社長。2001年大和ハウスと大和団地の合併に伴って新生・大和ハウスの社長就任、04年から会長となり現在に至る。
(村山浩一)
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