文筆家・ジェーン・スーさん「一時は絶縁も考えた父」
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はコラムニストのジェーン・スーさんだ。
――お母さんを早くに亡くされたそうですね。
「母は20年以上前、私が24歳の時に亡くなりました。母の口から、彼女の人生について聞けなかったのを後悔しています。本心で思っていたこと、女としての生きざまを知ることができず、母としての顔しか見られなかった」
「完璧な母親でした。私を楽しませるため、健やかに育てるために全身全霊をかけていました。私は一人っ子だったので、寂しくないように、小学校の時は数十人単位で同級生を誘ってスキーに連れていったり、サイクリングのツアーを組んでくれたり。私が運動会の1キロ走でビリを取った後は、翌年の運動会の前まで、夜は一緒に走って練習してくれるような人でした」
「父と結婚する前は、映画雑誌の編集者をしていたんです。仕事を続けていたら全然違った人生になっていたでしょうね。残念です。厳しい人ではありましたが、『あなたが幸せならそれでいいわよ』と言って、親の期待を押しつけることはしなかった。父も同様で、その点は2人とも一貫していました」
――お母さんは、ふざけ半分でお父さんのことを「あなたのうんと年の離れたお兄さん」と言っていたとか。
「子どもの頃からお父さんっぽくなかったです。年齢より若く見えました。自営業だから、私が起きる頃はまだ寝ていて、帰宅は私が寝た後。土日のどちらかはゴルフに行っていたので、顔を合わせるのは週に1回くらい」
――お父さんと絶縁寸前までいったそうですね。
「今から10年くらい前、私が35歳から38歳くらいまでの間が、最も関係が悪かったですね。父は商売が傾いて株で失敗し、一時は4億円の借金を背負いました。実家に戻ったのに、父は『家族2人で頑張っていこう』というでもなく、のらりくらり。外に女性もいました」
「インターネットで『親の縁切る』と検索もしました。でも、親子の縁ってなかなか切ろうと思って切れるもんじゃないんですね」
「父親らしく振る舞うことは一切なかったですが、父は『娘なんだから』という言葉で私を縛ろうとしたことは一度もありません。だからずるいとは思わないですね」
――近刊のエッセー「生きるとか死ぬとか父親とか」では、正面からお父さんと向き合っています。
「母からはきちんと話を聞けなかったので、父に対して同じ後悔はしたくないと思ったのです。色々と話す中で、戦時中は静岡の沼津に疎開し、大きな空襲に遭ったことも初めて知りました。父の口から聞くことで、戦争が今と地続きであると実感できたのは大きいです。父の体力がもつ限り、これからも一緒に墓参りや食事に行く機会をなるべく持ちたいと思っています」
[日本経済新聞夕刊2018年7月31日付]
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