松田元社長からは取引先との交渉術を学んだという安部氏

具体的には、ある建築業者さんとこんなやりとりがありました。そこは値段がほかの地域の業者さんより高かったのです。県の指定業者ということもあり、クオリティーや信頼は高いのは当然でしたが、店舗開発部長やら建築にかかわる担当部長からは「もうちょっとなんとかならないか」と泣きが入っていました。

オヤジは建築コストというぎちぎちの合理性の追求はあえてせず、ほかの条件を充実させてもらわなければ意味がないというメッセージを非常に高度な表現で伝えていました。細かいことはにわかには思い出せませんが、「そのバリューは何の要素を持ってバリューを構成しているのか。建築コストは客観的に絶対金額としては高いんだよ、あんたんところは。でも私は高いとは思っていない。なぜなら、こういうことをしてくれている、さらにしてくれる期待もある」というようにね。

オヤジはモチベーションを高めることの天才でしたから、いわゆる「殺し文句」などインパクトの強い言葉も駆使して、事業採算的にはトータルでは最高レベルの店舗建築を実現させました。

もう一つあります。僕もその後、オヤジのこの言い回しにならって何度も使いましたよ。それは、コメこうじを使ったハクサイのお新香についてです。お新香は地域ごとの生産者に供給してもらう仕組みをつくったのですが、夏と冬と気象条件が違うと塩漬けの時間もこうじ漬けの時間も温度湿度によって時間をコントロールしていかないと望むクオリティーになりません。これが生き物を扱う難しさです。

現地で取引している食材は、こちらのクオリティーの水準に達していなければ、ただちにクレームをつけないとダメなのです。社員も取引先も「しつけ」なければなりません。米屋さんでも、どこでもそうなんだけど、いい意味でうるさく、いい意味で目利きの客にならなければならないのです。そんなことを、オヤジは現場を回りながら教えてくれました。

このクオリティーへの徹底的なこだわりは、後にBSE(牛海綿状脳症)危機でも生かされました。吉野家スペックといわれた米国産牛肉の部位こそが吉野家ファンに納得いただけるものと、クオリティーには一切妥協せず、米国からの牛肉禁輸下で、牛丼は提供せず、豚肉やカレーを使ったほかの代替メニューで耐え続けました。これが吉野家のブランド価値を一層確たるものにしてくれたかもしれません。

安部修仁(あべしゅうじ)
1949年福岡県生まれ。1967年福岡県立香椎工業高等学校卒業後、プロのミュージシャンを目指し、上京。バンド活動の傍ら、吉野家のアルバイトとしてキャリアをスタート。1972年創業者松田瑞穂氏に採用され、正社員として吉野家に入社。1980年に吉野家の再建を主導し、1992年に42歳で社長就任。在職中はBSE(牛海綿状脳症)問題、牛丼論争と呼ばれる熾烈な競争を社員の先頭に立って戦い抜き、元祖牛丼店である「吉野家の灯り」を守り続けた。

(中野栄子)

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