女優・久保田磨希さん わだかまり解いた父の入れ歯
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は女優の久保田磨希さんだ。
――お父さんは亡くなっていますね。
「2002年の冬、父の見舞いに郷里の病院を訪ねると、病床の父が入れ歯をしまう容器が見つからずに困っていました。私が手のひらを出すと、ぽんと乗せたんです。それですべて救われました。母との方が仲がよく、父にはどこか距離を感じていた。父も私に嫌われていると思っているんじゃないかと、ずっと気になってました」
「自分の入れ歯を人の手にはなかなか置けませんよね。近しく思ってくれているんだ、とわだかまりが解けました。その2日後に父は他界。ちょうどテレビドラマ『大奥』に出る直前でした。時代劇に出る姿を見てもらえなかったのが今も心残りです」
――実家は飲食店。忙しく働く両親を見て育った。
「父は税務署に勤めていましたが30代で脱サラし、地元のJR福知山駅前にすし店を開きました。母は教師を辞めて手伝いました。私は父が44歳、母が37歳で生まれた一人っ子です。両親は店にかかりっきり。聞こえてくるのはテレビの声だけ。その中の人がとても楽しそうだった。自分以外の自分になりたいと夢想していたのが、今の職業につながっています」
――お父さんは昭和一桁生まれ。
「頑固な、ザ職人という感じの人でした。遅く生まれた一人っ子だったせいか、私のことを『世界一かわいい』といっていた。私にすれば『そんなことないよ』と、ちょっと鬱陶しかったものです。小学生のころ、同級生の通信簿を勝手にのぞき見したと誤解されて、先生に立たされたんです。家に帰ってそれを話すと父は激怒し、即電話で先生に抗議しました。全面的に私を信頼してくれていたんですね。今思えば、優しいおじいちゃんのような存在でした」
――お母さんは。
「店の料理や帳簿から私と父の世話まで1人でこなしていて、弱みを人に見せない人。私は小学校6年生で身長が168センチ。目立たないよう猫背ですごしてたのに『目立って一番になれ』とけしかけてくる。中学で生徒会副会長になり、卒業生への送辞を読まされました。でも人前で大きな声でしゃべった経験は今役立っています。母は気配り上手でもあり、店の常連が転勤する際は、お土産を持って駅まで見送りに行ってました。私も、舞台でお世話になった人には、たとえ疲れていても手紙を書きます」
――役者の道を選んだことには。
「店を継がせるつもりはなかったので、反対も何も。むしろ、父は私の似顔絵をTシャツに印刷したり、雑誌のコピーを配りまくったりして喜んでたようです。でも、私がセリフを間違えないか心配で、舞台を見に来たのは結局1回だけでした」
[日本経済新聞夕刊2018年7月24日付]
日本経済新聞掲載の「それでも親子」は毎週金曜日にNIKKEI STYLEで公開します。これまでの記事はこちらからご覧ください。
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。