グルメクラブ powered by 大人のレストランガイド

食の達人コラム

日本ウイスキーとともに育った「赤玉」、学者が支える 「世界5大ウイスキーの一角・ジャパニーズ(21)」

2018/7/20

国産本格ワインにブドウ栽培は欠かせなかった

選択と集中。信治郎が行ったのは、当然ながらワインとウイスキーへの集中であった。目玉はビール事業と歯磨き事業の売却だった。好調にもかからず、スモカ歯磨を1932(昭和7)年に売却。オラガビールで気を吐いていたビール部門は1934(昭和9)年に横浜工場を東京麦酒に売り渡した。この麦酒工場売却で得た金額は360万円であったと言われている。現在に換算すると72億円程度にあたる。

大黒柱「赤玉」の中身設計変更は驚天動地のことである。赤玉ポートワインに使われている原料ワインを国産にするという。1907年に28歳で赤玉ポートワインを世に出した信治郎は、神戸のスペイン人貿易商セレスから原料として仕入れ始めたスペイン産赤ワインに加えて、その後はチリなどヨーロッパ以外からも海外調達しており、1932年当時の仕入れ金額は毎年150万円に上っていた。戦争の足音が近付いてきて調達リスクが高まるといっても、利益が出ていないウイスキー事業を抱えた信治郎にとっては命を掛けた決断であったに違いない。

国産本格ワインの生産は大久保利通の意を受けた明治新政府農商務省の重点課題の1つであった。ヨーロッパから持ち込んだワイン用ブドウ品種の育成のため、官立のブドウ園が兵庫県の加古郡に、育種場が東京・三田に設けられた。山梨県では県令藤村紫朗の熱心な支援の下、地元の事業者が精力的に実用化に取り組んだ。

輸入した苗がフィロキセラ(ブドウ根アブラムシ)に感染していたことなどもあって、ワイン用ブドウ品種による本格ワイン生産は、1930年当時はまだ赤玉をまかなえるほどの規模には到達していなかった。

信治郎が白羽の矢を立てたのは、東京帝大農学部農芸化学科助教授の坂口謹一郎であった。1932年、坂口を訪ね「原料の生ブドウ酒を海外から仕入れるのはお国のためによくない。是非国産の生ブドウ酒を自分の手で造りたいと思うので、どうか指導してください」と頼んだ。

坂口は当時、自分の研究で忙しく、「総長の命令でもあれば仕方がありませんが」というような受け答えをした。それに対し、信治郎は東大総長小野塚喜平次に公式文書で請願したか、または直接面会するかして総長の許可をもらい、坂口からブドウ栽培とワイン醸造についての直接指導を受けられるようにしたのだった。

坂口が信治郎にまず話したのは、ワインづくりはすなわちブドウづくりで、良いブドウができなければどんなに醸造技術が進んでも何の役にも立たない、ということだった。そして日本のワイン用ブドウの第一人者だが、積年の研究への自己資産投入で困窮していた「日本ワインぶどうの父」、川上善兵衛を信治郎に紹介した。信治郎は善兵衛の負債を全て肩代わりしただけでなく、研究継続に必要な資金も拠出した。

膨大な量の赤玉用ワイン原酒の生産は、善兵衛の岩の原ブドウ園だけでは到底足りず、1934年、国税局が差し押さえていた山梨県北巨摩郡登美村の農園を坂口の紹介で買収した。現在のサントリー登美の丘ワイナリーである。岩の原の23ヘクタールに対し、登美は150ヘクタールと6.5倍の広さを持っていた。この農園には、川上品種の代表作ブラック・クィーン、マスカット・ベーリーA、マスカット・ベーリーB、ローズ・シオター、ベーリー・アリカントA、レッド・ミルレンニウム、川上2号などが植えられた。一部の品種は今日でも栽培され続けている。

坂口と善兵衛という、ウイスキーとは一見無関係な2人について書いたのは、日本ウイスキーの本質を知ってほしいからである。もちろん、鳥井信治郎という人物がいなかったなら、日本ウイスキーは今日の姿には到達していなかったに違いない。

信治郎の求め続けたのは、日本の自然、風土、文化がつくりだす味わいであった。その思いが強まったのは、彼がワインという西洋の酒の製造、販売を生業としたからであっただろう。日本になかったものを創造し、売り、消費してもらう。つくり手も飲み手も経験と言えるものはほとんどなく、全くの手探りで品質をつくり込んでいく。自らあんばいし、おいしさを見いだし、形にする。買い手の嗜好を把握し、掘り下げ、より深い満足感へと導く。

グルメクラブ 新着記事

ALL CHANNEL