ソプラノ佐藤美枝子 優勝20周年に聴かせる歌の花
日本の声楽界を代表するソプラノの佐藤美枝子さんがロシアのチャイコフスキー国際コンクールで優勝して20年。10月の20周年記念リサイタルに向けて歌手としての軌跡を振り返り、抱負を語る。
「優勝していろんなことが変わった。イタリアに留学していたが、優勝を基点に日本で活動を始めた」。佐藤さんは20年前をこう振り返る。ロシアのモスクワで4年に1回開かれるチャイコフスキー国際コンクール(通称チャイ・コン)。1998年6月の第11回大会声楽部門で佐藤さんは日本人として初めて第1位に輝いた。
チャイ・コンはベルギーのエリザベート王妃国際音楽コンクール、ポーランドのショパン国際ピアノコンクールと並び世界三大コンクールの一つといわれ、最難関、最高権威として知られる。58年の第1回大会以来、半世紀を超える長い歴史の中で、これまで第1位になって優勝した日本人は、バイオリンの諏訪内晶子さんと神尾真由子さん、ピアノの上原彩子さん、それに声楽の佐藤さんの4人のみ。「ビジュアル音楽堂」では今回の佐藤さんで4人とも取り上げたことになる。4人の優勝後の活躍ぶりは衆目の一致するところだろう。
■イタリアで研さんを積んだベルカント唱法
佐藤さんが声楽を始めたのは大分県の中学生だった頃。「ベルカント唱法をずっと学んできた」と話す。「ベルカント」とはイタリア語で「美しい歌」という意味。イタリア伝統の歌唱法で、喉に無理をさせずに低音から高音まで自然に伸びやかに発声する歌い方を指す。ベルカント唱法によるオペラを書いた作曲家にはドニゼッティ、ベッリーニ、ロッシーニがいる。いずれもイタリアオペラの大家だ。
佐藤さんは武蔵野音楽大学を卒業後、95年にイタリアでヴェルディ「リゴレット」のジルダ役を歌ってオペラ界にデビューした。さらにイタリアでベルカント唱法をより深く学んだ。イタリア留学の間にチャイ・コンで優勝し、世界で一躍注目され、日本にも名が知れ渡った。
優勝の決め手となったのはドニゼッティのオペラ「ランメルモールのルチア」のアリア。ルチア役は佐藤さんが最も得意とする演目だ。「ドニゼッティはベルカント唱法にのっとってオペラを作曲しているので、私に合っている。私の声はルチア役を歌うのにも合っていた。さらにはルチアという役柄にすごく共感するものがあり、最も思い入れのあるレパートリーになった」と語る。
10月1日には「佐藤美枝子チャイコフスキー国際コンクール優勝20周年記念リサイタル」を紀尾井ホール(東京・千代田)で開く。河原忠之氏のピアノ共演で、前半はチャイコフスキーの歌曲とオペラ「エフゲニー・オネーギン」の「手紙の場」。後半は彼女ならではのオペラの名場面を並べながら、ついには「ルチア」のクライマックスである「狂乱の場」へと至るプログラムだ。「20年の歳月の中で成長してきた歌を聴いてもらいたい」と記念公演に向けて抱負を語る。特に「狂乱の場」では、速いフレーズに装飾を施して歌うコロラトゥーラという持ち前の超絶技巧を聴けそうだ。
■ハイライト版「幻想のルチア」を日本各地で上演
恋人エドガルドとの仲を兄に裂かれて狂乱へと至る悲劇のヒロイン、ルチア役は彼女が属する藤原歌劇団の公演で好評を博してきた。「ルチアを歌ったのは本公演では10回くらい」と言う。案外少ない気もするが、実は「ルチア」のハイライト版といえる岩田達宗氏の演出による「幻想のルチア」という作品がある。「ルチア歌い」の佐藤さんの魅力を最大限に引き出すために、彼女のために特別に編集された作品だ。
「幻想のルチア」では「日本各地を巡演しているので、かなりの回数を歌っている」。岩田氏の演出ではナレーションが加わり、エドガルドの回想として始まる。「分かりやすい展開になっている。ルチア役は歌いっぱなしになるので大変だが、多くの人たちに親しんでもらえるのでやりがいがある」と話す。「毎朝アリアを歌って発声練習をしている」と言うほど「ルチア」は彼女の日課にもなっている。
「優勝から20年たって年を重ねた分、声も厚みを増した」と自らの歌唱の変化を分析する。軽快で優美なレッジェーロという定評のある歌い方に加え、今では重みと深みのある歌声も体得した。これに伴いレパートリーも拡大させている。
「ルチア」のような悲劇だけでなく、喜劇の役柄でも評価を高めてきた。「私自身は悲劇が合うと思っているが、もともとの私の性格を知っている人からは『コメディーだよね』と言われる。確かに喜劇ではわりと自分をつくらずに演じることができる。体力面では喜劇のほうが大変だけど、自分の中からわき出てくるものがある」。これからはロッシーニやドニゼッティの喜劇も彼女の重要な役柄になっていきそうだ。
一方で佐藤さんの大事なレパートリーとして、コンクールにその名を冠したチャイコフスキーの歌曲やオペラもある。「チャイコフスキーの歌はロシア語。イタリア歌曲のように当たり前に歌うのは難しい」ようだ。「ロシア語には曖昧な母音がいくつかあり、舌の使い方や声の曇らせ方などは、ロシア人に付いて発声法を習っている」と言う。
交響曲やバレエ音楽、オペラで有名なチャイコフスキーだが、歌曲も103曲とかなりの数がある。「私が実際に勉強したのは70曲から80曲。その中から選んでCDも出した」。チャイコフスキーの歌曲の特徴としては「語りあり、叙情的なものあり、オリエンタルなものあり。詩に基づいてしっかり表現されている」と指摘する。「分からない言葉は辞書で引き、作曲家がどんな経緯でその詩を選んだのかも調べ、詩の内容を自分の身に染み込ませて完全に理解してから歌うようにしている」。詩人と作曲家の関係について理解を深める地道な取り組みだ。
■滝廉太郎ゆかりの大分が育んだプリマドンナ
こうしたロシア語の歌でも「イタリアオペラを歌うときのように、外に向けてしっかり発声するよう心掛けている」。日本語と得意のイタリア語はもちろんのこと、ロシア語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、英語のいずれもネーティブの発音と発声法を習得しているのは言うまでもない。その上で、どの言語でも「歌の基本は同じ」と考え、ベルカント唱法に基づいて表現していく。ロシアや中・東欧のスラブ語派民族の歌手が有利といわれたチャイ・コンで優勝したゆえんだ。
佐藤さんのこれまでの活躍はオペラと歌曲にとどまらない。2007年にはイスラエルの巨匠エリアフ・インバル氏の指揮による英フィルハーモニア管弦楽団との共演でマーラーの「交響曲第2番ハ短調『復活』」のソプラノ・ソロを務めた。ベートーベンの「交響曲第9番ニ短調作品125」やヴェルディ、フォーレの「レクイエム」でもソロを歌うなど、交響曲や宗教曲でも実力を示している。さらには日本のオペラにも精力的に取り組む。10~11月にも團伊玖磨氏(1924~2001年)のオペラ「夕鶴」で、つう役を歌い演じる。
佐藤さんの趣味は花めぐり。好きな花はカサブランカ、バラ、ポピーなど。故郷の大分でコスモスが一面に咲くのを見るのも好きだ。日本の近代歌曲を生んだ明治期の作曲家、滝廉太郎(1879~1903年)は、父の郷里の大分で没した。「大分はクラシック音楽が盛んな土地柄。世界に文化を発信している」と佐藤さんは自負する。そうした環境の中で、高音域のピアニッシモによる可憐(かれん)で繊細な表現、澄み切った声による劇的展開など、芸術音楽へとつながる彼女のセンスが育まれた。世界のプリマドンナは今どんな歌唱を聴かせるのか。優勝20周年に歌の花が咲く。
(映像報道部シニア・エディター 池上輝彦)
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