音楽家・サエキけんぞうさん 自由を傍観してくれた父
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はミュージシャンのサエキけんぞうさんだ。
――千葉の大きな家に暮らしていたそうですね。
「市川市の広い屋敷に祖父母らと住んでいました。間借りしている人もいたので出入りが多いにぎやかな家でした。隣の家に日本舞踊の師匠がいて、父親は宴会芸の踊りを習っていたり、母親は家の茶室で弟子にお茶を教えたり。昔の大家族。文化的な雰囲気もある家でした」
――それで音楽の道に進んだのですね。
「最初のバンド、ハルメンズは千葉の仲間と結成。1970年代の千葉は空き地が消え、快速電車が高架を走るようになりました。都市近郊の急激な変化の中でビートルズやレッド・ツェッペリンを聴いた。経済成長と同時にロックが流入。それが音楽の道へ誘い込んだんです」
――お父さんはロックに否定的だったのでは。
「いいえ。父が買ってくれたステレオでロックを聴いていました。自分の責任の範囲内では何をしても自由。教育方針というわけではなく、ロックも学生運動も親の想像力の範囲を超えていて、傍観していたんだと思います」
――お父さんは戦争を経験されていますね。
「東大時代に学徒出陣して、習志野の陸軍に1年半ほどいたようです。そこで、上官からひどい目に遭い、母は『戦争を機に人間が変わった』と言ってました。明るく優しい父でしたが、戦前はもっと楽しい人だったようです」
「子供に対して寛容であることが戦後の理想的な父親像だったのかもしれません。『巨人の星』の星一徹のような暴力的な父親は実際にはいませんよ。父の場合は戦前と戦後で文化や思想で断絶があり、僕たち子供との間にも断絶があったと思います」
――お父さんは音楽の仕事についてどんなことを。
「『大変だな』と『よく頑張っているな』の二言だけですね。日ごろから色々な話をしていたけど、やはり文化的な断絶があったとしかいいようがない。戦争で感性が鈍ってしまったのでしょう」
「両親とも亡くなりましたが、自分が好き勝手なことをやれる人生を送れているのは、父が傍観して見守ってくれていたおかげだと思うんです。バンドや大学で多くの若者と接しますが、傍観する姿勢を大事にしています」
――今年、80年代のオリジナルメンバーでパール兄弟を再結成しました。お父さんへの思いもありますか?
「父自身は、戦後のカルチャーを楽しむことができませんでしたが、そんな父が傍観してくれていた80年代の文化。戦後に花開いた若者文化という成果を、父は満足して見ていると思います」
[日本経済新聞夕刊2018年7月10日付]
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