メーガン妃も登場 「マイ・フェア・レディ」夢の競馬
英国王室が主催する競馬と社交の祭典、「ロイヤル・アスコット」が今年も開かれました。王室のセレブをはじめ、紳士淑女が集う5日間。参加したエッセイストの三浦暁子さんが、「世界のどこにもない空間」の臨場感を伝えます。
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英国では6月の第3週を心待ちにする人々がたくさんいます。ウィンザー城の西南に位置するアスコット競馬場で、競馬の祭典、ロイヤル・アスコットが行われるからです。英国の競馬ファンはもちろんのこと、この日のために海外からやってきた人も続々と参集し、競馬場は独特の雰囲気に包まれます。
この世にこんな競馬があるなんて。心からそう思える空間です。ロイヤル・アスコットは、英王室が主催する特別な競馬なのです。
様々な席が用意され、厳格なドレスコードがもうけられるのもロイヤル・アスコットの特徴でしょう。貴族階級の人々が集う特別席から、馬車に乗ってきた人だけが使うことを許されるレストラン、さらにもっと庶民的な領域まで、多くの種類のチケットが売り出されます。
過ごすエリアによって、帽子や服装の決まりがあり、守らなくてはなりません。そうした世界を目の当たりにすると、階級社会が現実に存在するのだなと実感し、衝撃を受けます。
もっとも、チケットを購入し、服装の規定を守り、一定のマナーに従いさえすれば、誰もが競馬を楽しむことができます。それぞれがそれぞれの方法で自分に合った場を選ぶことができるという意味で、ロイヤル・アスコットは稀有な経験を提供してくれると私は思います。
ヘンリー王子とメーガン妃、そろって登場
私がロイヤル・アスコットを初めて観戦したのは2013年のこと、ゴールドカップという伝統あるレースで、209年ぶりに女王の愛馬エスティメイト号という馬が勝ったときです。「初めて来て、こんなすごいもの見てしまうなんてずるいよ! 僕なんてずっと通い続けてやっと見たのに」と、周囲に冷やかされました。
優勝カップを手にしたときのエリザベス女王の笑顔を私は今も忘れることができません。それは、たとえ英国の女王でも、かなわぬ望みをお持ちだったのだと知った瞬間でもありました。
今年は、6月19日から23日まで5日間がロイヤル・アスコットの開催期間となり、幸運を得て、私もアスコット競馬場に来ることができました。
今年は、特に楽しみにしていることがありました。
5月に結婚し、サセックス卿ご夫妻になったばかりのヘンリー王子とメーガン妃が、アスコット競馬場に姿を現すに違いないと信じていたからです。王室が中心となって開催されるこの競馬に、お二人がいらっしゃらないはずがありません。まして結婚式を挙げたのは競馬場に近いウィンザー城の中の教会でした。
それまで、メーガン妃は女王陛下とご一緒に公務を果たしたことはありましたが、ヘンリー王子と二人そろっての公務は一度しかなかったはずです。
果たして、ロイヤル・アスコットの初日、お二人は姿を現し、馬車の上から手を振り、笑顔を振りまきました。
予想はしていたものの、実際に目の当たりにすると、これは現実だろうかと、私はぼんやりしてしまったほどです。
サセックス卿夫人となったメーガン妃は白いドレスに身を包み、白と黒のシンプルな帽子をかぶっていました。長袖で襟をシャツ風に立て、デコルテを出さず、スカートの丈は膝下……。まさにマナーどおりの装いです。
帽子も派手すぎず、美しいカーブを描いたスタイルで、頭全体を覆う形になっています。これもマナー通り。
周囲からのアドバイスもあったのかもしれませんが、これほど完璧に決まりを守りながら、清楚な華やかさを失わないのですから、なかなかできることではありません。観客からため息が漏れたのも当然でしょう。
私の感想はというと、メーガン妃は、想像していたよりずっときゃしゃで脚が細く、美しい褐色の肌の持ち主でした。歯が宝石のように真っ白です。好奇心にあふれた目をくるくると動かすその姿は、新しい環境に潰されることなく、自分の置かれた位置になじんでいらっしゃるように見えました。
色とりどりの衣装や大きな帽子で飾った周囲の人たちに臆することなく、和やかに歓談し、ヘンリー王子と臨んだ表彰式でも、ごく自然にふるまうことのできるレディーでした。
勝利した世紀の天才騎手フランキー・デットーリが、思わずその手に接吻してしまったのも、無理からぬことだと思えました。
彼女の姿を見ているとき、私は映画「マイ・フェア・レディ」の場面を思い出しました。
ご存じの方が多いでしょうが、花売り娘として働くイライザは、ひどいなまりがありました。けれども、ヒギンズ教授の特訓を受け、誰もが驚くような変身を遂げます。美しいアクセントの英語を話し、あでやかな衣装を着こなし、なによりもその立ち居振る舞いで周囲を魅了するようになったのです。ヒギンズ教授でさえ、その優雅さのとりこになったほどでした。そして、彼女のお披露目として選ばれたのは、他でもないこのロイヤル・アスコットだったのです。
マイ・フェア・レディの主人公になった気分
メーガン妃もハリウッド女優だったときに見せた華やかさとは別の美しさを身につけ、堂々とロイヤル・アスコットに参加していました。それが誰かの特訓によるものだったのか、王子のアドバイスによるものだったのか、部外者である私には分かるはずもありません。けれども、控えめでありながら、りんとした美しさは、やはり自らをレディーに変えてしまったことを示しているといえましょう。
それがロイヤル・アスコットで披露されたことにも注目したいと思います。ロイヤル・アスコットとはそういうところだからです。園遊会さながらの競馬だからこそ、新しく王室のメンバーになった方を紹介する場としてふさわしいのです。
今回、私は取材パスをいただいたこともあり、競馬場のあちらこちらをくまなく歩きまわることができました。それは得難い経験でした。それぞれがそれぞれの方法で楽しんでいるのを目撃することができたからです。
私にとっても、ロイヤル・アスコットは、自らを変身させる場となっています。普段は「楽が一番」といった服装の私ですが、ロイヤル・アスコットとなると、そうはいきません。それぞれのドレスコードを守らなければ、競馬場の門をくぐることさえ許されないのですから。
だからこそ、皆、趣向を凝らし、普段では考えられないような帽子をかぶります。私がクジャクの羽がついた緑色の帽子をごく自然に身につけてしまったのも、ロイヤル・アスコットの力です。さらには、靴ずれができると分かっていながら、ハイヒールをはき、ドレスコードを守るように注意して、肌を出さないドレスを選びます。爪にも普段は選ばない色のマニキュアを選びました。Lady Luckという名が気に入ったからです。香水もつけました。
そして、5日間が終わったとき、私は自分が前とはほんの少し違う自分になったような気がしています。
もちろん、ロイヤル・アスコットに参加したからといって、私が貴婦人になれるわけではありません。けれども、貴婦人のように振る舞うことは意外と楽しいという感触は得たのです。自分で自分をマイ・フェア・レディの世界に参加させたような、そんな感覚……。
日本へ帰るや、いつもの日常が始まります。けれども、家事や仕事の合間に、私はふと思い出すのです。アスコット競馬場の緑のターフや抜けるように青い空、そして、威厳ある女王陛下の笑顔、ベルベットのような肌のサラブレッドを……。
そして、ほんの少しでいいから、自分をステップアップさせたい、いや、しなくてはならないと、決心したりします。
できることなら、あなたものぞいてみてはいかがでしょう。そこには昨日まで知らなかった新しい世界が広がっているのですから。
エッセイスト。1956年生まれ。上智大学文学部史学科卒。結婚後、文筆活動を開始する。日本文芸家協会会員、ウマ科学会評議員、兵庫県のじぎく文芸賞選考委員、神戸新聞文芸エッセー部門選者。著書に『ボルネオの白きラジャ』(NTT出版)、『梶本隆夫物語』(燃焼社)、共著に『家族はわかり合えないから面白い』(三笠書房)、『10人の聖なる人びと』(学研)など。
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