女優・佐久間良子さん 疎開先へ迎えに来た父の背中
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は女優の佐久間良子さんだ。
――お父さんの思い出は。
「大変温厚な人でしたし、私もおとなしい方だったので、叱られることもなく育ちました。小学校に上がる年に弟が生まれ、私だけ群馬県の山寺に集団疎開しました。最年少でした。1カ月ほどで父が迎えに来て、優しく背負ってくれた時の記憶は強烈です。食糧不足のため、私は栄養失調がひどくて立ち上がれず、口もきけませんでした。父も驚いたと思います。妹と弟がいますが、私に特に優しかったのは、そんな負い目もあったのかもしれません」
――お母さんは。
「陽気で音楽が大好き。夕飯の支度をしながらオペラのアリアを歌っていました。そんな母の影響で私も音楽が大好きです。目も耳も足腰も弱くなりましたが100歳で健在です。入れ歯が一本もなく、食は細くなりましたが、しっかり食べます。90歳までは刺しゅうをたしなみ、歴史物を中心に読書は続けています」
――芸能界に進んだことについて両親の反応は。
「スカウトされた時は絶対反対。どんな世界かも分からないし、普通に結婚してほしかったと思います。そういう時代でしたから。女学生の自分は映画を見る機会もなく、特別興味はありませんでしたが、不思議なもので、反対されると『やってみよう』という気持ちになりました。それでも最初は『1年間だけ』という約束でした。今も続けているのは結局、この仕事が好きだったんでしょうね」
「母は料理が上手で、芸能界に入り、仕事で帰りが遅くても手料理を作って待ってくれていました。レシピも教わりましたね。作品の打ち上げなどで人が集まっても、冷蔵庫にある物などを上手に使って、もてなしてくれました」
――息子の平岳大さんは同じ俳優の道に進まれました。
「本当は別の道に進んでほしかった。どの仕事も厳しいですが、芸の道の厳しさは私自身が知っていたので。駄目と言うと逆効果なのは分かっていたはずなのに、結局は駄目と言ってしまいましたね」
「(平さんのデビュー作で親子共演した)舞台『鹿鳴館』の出演を聞いた時も怒りました。でも見事にやってのけてくれた。その時に『もう何も言うまい』と思いました」
――子育ての方針は。
「家の中では『普通』にこだわりました。長いセリフを覚える時も子供が起きている間は台本を開かずに。有名人の子供だからと、うわついてほしくありませんでした。舞台の休演日を授業参観の日にしてもらうなど、学校行事も極力参加したつもりです」
「家を多く空けて、多感な時期に離婚もしました。双子の妹ともども、不満もあったと思いますが、兄妹仲良く元気に育ってくれました。子供と呼ぶにはもうおじさん、おばさんですが、これからも大きく羽ばたいてほしいです」
[日本経済新聞夕刊2018年6月26日付]
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