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食の達人コラム

日清戦争後の英国ブーム 日本ウイスキー開発の原点に 「世界5大ウイスキーの一角・ジャパニーズ(20)」

2018/6/29

日本のウイスキーはスコットランドに育まれた側面が大きい=PIXTA

 スコッチウイスキーを日本で造ることは、近代日本の最終到達点だったと思う。日本はスコットランドの支援もあって工業化に成功し、産業大国になる。酒は産業であると共に文化でもある。スコットランドの国酒スコッチウイスキーへのチャレンジは、産業化の後の文化構築のようなものであったかもしれない。

 スコットランドは工業技術とウイスキーだけでなく、人材も輩出した。多くのスコットランド人が海外で大英帝国の先兵となって活躍した。スコットランド人同士の絆も固かった。

 英国が日本と接触したのは1854年で、幕府との交渉を始めている。日英和親条約は米国に半年間の後れを取ったが、日英修好通商条約以降は米国にほぼ肩を並べる。そしてトーマス・グラバーのすさまじい活躍が始まる。

 1838年、東スコットランドの港町フレーザバラで生まれ、中心都市アバディーンでの学業を終えると、グラバーは1859年上海にやってくる。そこで、当時世界最大の商社であったジャーディン・マセソン商会に入社し、同年長崎支店長として赴任する。その2年後に同商会の代理店として独立し、自らのグラバー商会を設立する。西国雄藩と幕府への軍艦、武器、弾薬などの兵器ビジネスを手がける一方、1863年には伊藤博文、井上馨ら長州の5人の藩士を、翌年には薩摩の19人の藩士を密出国させ、ロンドンに留学させる。坂本竜馬とも厚い信頼関係で結ばれ、反幕勢力の結集に大きな力となる。

 日本初の蒸気機関車走行、アバディーンから部材を運び日本初の洋式ドック建設、長崎の高島炭鉱の開発など、日本の近代化、工業化に役立つ多くの文物を日本にもたらした。

明治維新以降は三菱の顧問として、同社が日本最大の企業グループに発展するのを支援した。1884年に破綻した外資系ビール工場をキリンビールとして再出発させたのもグラバーである。

 ここで、日本ウイスキーのタイプがスコッチになる必然性について考えてみよう。日本がスコットランドに魅せられる出来事があったのではないか。

 例えば、日本最初の高等工業教育機関、工部大学校。そこでの教育は、グラスゴーのアンダーソン・カレッジやグラスゴー大学工学部という、当時世界で最も進んだ大学と同一かそれ以上のレベルのカリキュラムに基づいていたと言われている。

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