マーケティング無用が新政流 反骨の志で変えた酒造り佐藤祐輔 新政酒造社長(下)

実家を継ぐことを決意

帰省した際、父親に会社の帳簿を見せてもらったら、「すさまじい赤字だった」。日本酒市場は消費者の日本酒離れが響き、出荷量は1973年をピークに右肩下がりが続いていた。戦後間もなくは4000を超えていたという酒蔵の数も、2000年代には2000を切った。日本酒の歴史に名を残す6号酵母を生み、かつては全国的な人気を誇った新政酒造も青息吐息だった。

木桶が並ぶ新政の蔵の中

「このままではあと5年でつぶれる。つぶれたら銀行管理下に置かれ、自分の造りたい酒が造れなくなる。それでは、せっかく酒造りを継いでも、何のためにジャーナリストをやめる覚悟までして日本酒を勉強したのかわからなくなる」。危機感を抱いた佐藤氏は、2年間の予定だった酒類総合研究所での勉強を1年半で切り上げ、急いで実家に戻った。そして社長だった父親を説得し、自ら酒造りにかかわり始める。

当時の新政が主に造っていたのは、安価な日用酒である、いわゆる「普通酒」。純米酒や吟醸酒、大吟醸酒など比較的高価だが消費者に人気のある「特定名称酒」はほとんど手掛けていなかった。佐藤氏はまず、特定名称酒の改革に乗り出した。

現場で生きた、知見の積み重ね

現場は未経験だったものの、頭の中には、得意の集中力を発揮して勉強した専門知識や数々の最新情報が詰め込まれていた。酒類総合研究所で学んだ実践的な知識や、ジャーナリストとして数々の先進的な酒蔵にインタビューして得た最新の知見もあった。それらをフルに動員して現場のスタッフに細かく指示を出し、自らも現場に立ち会いながら酒造りを進めた。

結果はすぐに出た。実家に戻った直後に手掛けた07年の日本酒は、県や東北地方の鑑評会で、知事賞や金賞など次々と賞を獲得。翌08年からは、スタッフを若手に切り替えたり、普通酒の比率を下げたりするなど、様々な改革を実行。設備投資も大幅に増やした。新政の評価は急速に高まり、売れ行きも急増。12年には黒字に転換した。

代償も支払った。佐藤氏の厳しい要求についていけず、辞めていった社員も大勢いた。佐藤氏自身も仕込みの時期は毎晩、蔵の中に寝泊まり。問題が見つかれば、夜中でも起きて徹夜で作業した。

過労から重度のパニック障害と不安障害を併発し、1年以上を「棒に振った」こともある。現在は、その時の反省から、細部にまで口を出しすぎるのを避け、信頼できるスタッフにある程度、仕事を任せるようにしている。それによって増えた時間を活用し、様々な挑戦を重ねてきた。

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木桶の保存、無農薬酒米の普及にも意欲
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