無限の時に舞う 小林美恵のバッハ無伴奏ヴァイオリン
クラシックディスク・今月の3点
小林美恵(ヴァイオリン)
見事な演奏である。小林美恵がパリのロン=ティボー国際音楽コンクールのヴァイオリン部門で日本人初の優勝を果たしたのは、1990年。日本の音楽ジャーナリズムは、コンクールで華々しい成果を上げたデビュー時点と破格の高齢ながら現役を続行している場面、つまり始点と終点の報道には力を入れる半面、心技体とも充実する40~60歳代の演奏家を軽視する傾向がある。小林もご多分に漏れず、オーケストラの定期公演で協奏曲のソロを弾くような華々しい機会こそ減ったが、解釈の深まりと燃焼度、スケールでは格段の進歩を遂げた。日本各地に熱心な支援者がいて、演奏活動を応援する。
ヴァイオリン音楽の「旧約聖書」に値するバッハの無伴奏ソナタとパルティータの全6曲とは、デビュー25周年の2015年を機に改めて向き合い、16年2月6日に東京で一気に演奏、17年8月から18年2月の3度に分け、神奈川県の相模湖交流センターでのセッション収録に取り組んだ。DSD(ダイレクトストリームデジタル)方式の優秀な録音は、小林のずぶとくはない代わり、どこまでも透明に空気の中へと溶け込んでいく美音の特徴を克明にとらえている。
1968年。世界を学生運動の嵐が貫き、戦後社会の価値観の過激な修正を求めた時期を境に、バッハの演奏解釈も大幅な見直しを迫られた。ピリオド(作曲当時の仕様の)楽器と自筆譜、様々な古典奏法の文献などを尊重し、歴史的情報に裏打ちされた演奏(HIP)が台頭。モダン(現代仕様の)楽器をただ華やかに鳴らし、現代の大ホールやオーディオ装置をゴージャスなサウンドで満たす嗜好が逆に「時代遅れ」とされた。とりわけ音符一つ一つの重さ(音価)と旋律の歌わせ方(フレージング)、フレーズの「入」「出」を踏まえた分節法(アーティキュレーション)はHIPで一変した。
小林はピリオド楽器・奏法の研究成果も十分に押さえ、過剰な身ぶりを禁欲的といえるほど抑制しながら、楽器をとことん鳴らし、大ホールの隅々まで輝かしく響くバッハを目指す。実演と同じく、並外れた集中力は緊張の糸を一瞬たりとも緩ませない半面、聴き手にはストレスを与えない。とてつもなく安定した機長の手腕に身を委ね、大空をどこまでも気持ちよく飛行する快感に近い。小林もまた、刻々と変化するバッハの楽想、舞曲のリズムを心のおもむくままに再現し、時間と空間を自在に往来するのが気持ち良さそうだ。(オクタヴィア)
マルティン・フレスト(クラリネット)、リュカ・ドゥバルグ(ピアノ)、ジャニーヌ・ヤンセン(ヴァイオリン)、トーレイフ・テデーン(チェロ)
今年は20世紀後半のフランスを代表する大作曲家、オリヴィエ・メシアン(1908~92年)の生誕110年。自ら教会オルガニストを務めるなど、熱心なカトリック信仰は作風にも当然反映されたが、関心の範囲は鳥たちをはじめとする自然界の生命やアジアの民俗音楽まで広がり、昨年、シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団が全曲日本初演を成功させたオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」など、人類全体を愛で包み込む壮大な作品を数多く残した。
中でも「世の終わりのための四重奏曲」は第2次世界大戦中、従軍してドイツ軍の捕虜となり、収容所の中で書き、初演した特別の名作だ。クラリネット、ピアノ、ヴァイオリン、チェロの編成自体が珍しく、8つの楽章のうち全員で奏でるのは4つだけ、残り半分はピアノを除く三重奏、弦楽器とピアノの二重奏、クラリネットのソロと多彩な響きを放つ。ゲルリッツの収容所ではナチス・ドイツが捕虜を人道的に扱っていることを世界に示すため、音楽や演劇、映画などの活動の自由がある程度保証され、メシアンも優遇措置を受けた。だが食糧不足や冬の寒さは容赦なく、最悪の環境で書かれたのは事実。1941年1月15日の世界初演は捕虜たち、ドイツ軍将校たちが劇場用バラックの中で並んで聴いた。
初演状況と日本語訳の題名から、終末の重苦しい音楽を想像する人がいても当然だろう。だが「ヨハネ黙示録」に啓発されたメシアンは楽譜の序文に、「この四重奏曲は8つの楽章からなる。なぜか? 7は完全な数であり、6日間の天地創造は神聖なる安息日によって聖化される。休息の第7日は無窮へと延びゆき、永遠の光と変わることなき安息の第8日になる」と記した。原題の直訳は「世」ではなく「時」の終わり。天使が力強くラッパを鳴らすと、人間の次元の時間や空間は超越され、永遠の世界が広がる。極限状況だからこそ見えた、見ようとした理想のメッセージがこめられている。
原題を代表する器楽の名手4人が昨年8月28~30日、ベルリンのジーメンスヴィラに集い、じっくりと録音した新譜は不朽の名作であるがゆえに染みついてしまった余計なイメージ、先入観、エピソードの一切を洗い流した。高度の独奏技術に裏打ちされ、完璧なアンサンブルをクールに達成したにもかかわらず、根底に流れる信仰心やヒューマニズム、平和への思いのすべてを想起させる優れた演奏だ。(ソニー)
シェク・カネー=メイソン(チェロ)
ミルガ・グラジニーテ=ティーラ指揮バーミンガム市交響楽団ほか
さる5月19日に行われた英王室のヘンリー王子、メーガン妃のロイヤル・ウエディングが世界に中継された際、音楽ファンの多くが1人のアフリカ系チェロ奏者の青年に注目した。2016年、17歳で英国放送協会(BBC)主催のヤング・ミュージシャン・コンクールに優勝したシェク・カネー=メイソン。同コンクール初のアフリカ系優勝者という話題性よりも、音楽性を純粋に評価され「デッカ」レーベルからのCDデビューが実現した。
アルバムの中心にはショスタコーヴィチのシリアスな大作「チェロ協奏曲第1番」を置き、シェクの出身地ノッティンガム・ロイヤルコンサートホールでのライブ録音を採用している。16年からバーミンガム市響の首席を務めるリトアニア出身の女性指揮者、ミルガ・グラジニーテ=ティーラ(1986年生まれ)の実力にも触れる貴重な音源。若い2人のストレートなエネルギーが楽曲に新たな輝きを与える。
だが冒頭はユダヤ民謡「イブニング・ローズ」、最後の2曲はレゲエの王者ボブ・マーリーの「ノー・ウーマン、ノー・クライ」と16年に82歳で亡くなったカナダの詩人でシンガーソングライター、レナード・コーエン最大のヒット曲「ハレルヤ」。チェロ奏者のデビュー盤としては、かなり異色だ。ボーダーレスなテイストの背後には、「自分のコンサートを聴きにきてくれた若い人たちに何かインスピレーションを与えたい」「彼らに関心のある何かを表現することで、クラシック音楽の世界に入ってきてもらいたい」という切実な願いが存在する。心洗われるアルバム。
来年4月には首席指揮者ピエタリ・インキネンに率いられた日本フィルハーモニー交響楽団のヨーロッパ公演に同行し、エルガーの協奏曲を独奏するスケジュールも決まった。(ユニバーサル)
(NIKKEI STYLE編集部 池田卓夫)
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