薩長の英国留学生 スコッチウィスキーと出合ったのか
世界5大ウイスキーの一角・ジャパニーズ(19)
なぜ日本において、製造工程が複雑な蒸溜酒「ウイスキー」が造られ始めたのか?
アメリカンウイスキーの章で紹介したが、米国でウイスキーづくりが広がった時期は製造工程が単純な蒸溜酒のラムよりも後である。ラムでの経験を生かした。より時代が下るとはいえ、なぜ日本ではいきなり手間のかかるスコッチタイプをつくり始めたのか?
その経緯を解き明かす上で、大切なヒントが得られるチャンスが巡ってきた。2016年7月1日から日本経済新聞朝刊で伊集院静氏による「琥珀(こはく)の夢――小説、鳥井信治郎と末裔(まつえい)」の連載が始まったのである。サントリーの創業から赤玉ポートワインの成功、ウイスキー事業への進出と成功、ビール事業への進出と黒字化までが書かれている。書籍は『琥珀の夢 小説 鳥井信治郎』(集英社)として出版された。
小説にはウイスキー事業進出の決断に向けての出来事が描かれる。
まず、1919年にトリスウヰスキーというブランド名の製品を出した。ウイスキー原酒を使ったのではない。樽(たる)に入れて保管してあったリキュール用アルコールを使ったのである。樽の中で熟成して味がウイスキーに似てきていた。発売した3000本がたちまち完売した。この一件で信治郎は樽熟成の威力を知る。
しかし、これは当然ながら本物のウイスキーではない。「本物のウイスキー」はどんなものと考えられていたかがうかがえる部分がある。東洋製罐の創業者、高碕達之助が発言する。
「アメリカ人でもスコッチウイスキーを造る技術と熟成期間を耐える財力がないから、トウモロコシでこしらえたバーボンを短期間で造ってるんだ。それにスコッチウイスキー造りが商売になるんなら、とっくに灘(なだ)でも伏見でも酒造会社がやってるはずだよ」
これに対して信治郎は、「誰もまだ造ってへんもんやから、やってみようと思うてまんのや」「同じ人間の手や。わてのこの手でもできるはずや……」と応える。
高崎は、スコッチウイスキーを日本で造ることの困難さを知っていたように見える。当然だが、信治郎は高崎よりさらによくスコッチウイスキーのことを知っていた。そして、自分がパイオニアとして先頭を切ってやり通せるという確信を抱くことができたきっかけがあったに違いない。
私がそのきっかけを掘り起こしたいと思ったのは、山崎蒸溜所の開設から90年の2013年のことだった。大阪の土地柄、大阪人の気質、大阪の工業力、経済力などから、日本でのウイスキー造りが大阪の実業家によって大阪近郊で始まったのは必然的なことではなかったかという結論に達し、それを『日本ウイスキーの誕生』(小学館)にまとめ、出版した。
日本が「近代」と出合ったのは幕末である。ペリー来航、日米和親条約、日米修好通商条約と幕末の日本はまず米国によって、そして、その米国に欧州列強が加わって開国が進展した。
米国で南北戦争(1861~1865)が勃発し、海外での存在感が低下するとともに、日本への関与を強めたのは当時世界最大・最強国として君臨していた大英帝国であった。
英国は巧妙であった。1859年幕府のお膝元である横浜開港での進出第1号は英国の商会であった。長崎にも拠点を設けた。そうやって幕府や各藩との関係をつくると、日本の将来を背負う人材の英本国留学を助け、英国との深い関係を醸成していった。
その際、日本人が接した英国人にスコットランド人が非常に多かったことは、その後の日本に大きな影響を与える。スコットランド人脈との出会いは、英国、日本の両方で起きた。英国で起きた出会いとは、長州藩士5人のロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ留学に始まる英国留学である。翌年の薩摩藩留学生も併せて、面倒を見てくれたのはスコットランド人脈だった。
日本における出会いとは、横浜進出第1号のジャーデン・マセソン商会がそうであったようにスコットランド系の商社や会社の進出、明治新政府のお雇い外国人の中に占めるスコットランド人の比率の高さであった。
そのお雇いスコットランド人たちは自国で発展した工業技術、インフラ、社会システムなどの日本への導入を自ら指導してくれた。日本初の工学高等教育機関、工部大学校の教師や教育システムがスコットランド流であったことなど、様々な分野で新生日本は、世界のどの国よりもスコットランドに学んで国家の基礎をつくっていった。
この工部大学校は、1885年に工部省が廃止されたことから、文部省の東京大学工芸学部に統合され、帝国大学工科大学(現東京大学工学部)となる、という変遷をたどる。
スコットランドは連合王国の一翼を担うが、日本語ではイギリスという国名でひとくくりにされるなど実に曖昧な位置づけだ。イングランドから採られた呼称だが、現地では、日本語で意味するイギリスは「ユナイテッド・キングダム」に基づく「UK」か「ブリテン」を使う。通常は「イングランド」「スコットランド」「ウェールズ」「ノースアイルランド」を使い分けている。
スコットランドは1707年、イングランドと合併する。当時のスコットランドは、独立はしていたが国王はイングランドと共通で、実態はイングランドの北にある貧しい小王国で、イングランドに比べれば見る影もない存在であった。この合併の実態は救済合併であった。合併によって国家破綻を免れたスコットランドは困難な時代の苦しさをバネにしたかのように、大発展を遂げる。特にアメリカ独立戦争(1775~1783)、ナポレオン戦争(1803~1815)などの後、産業革命の旗手となり重化学工業を発展させる。グラスゴーは工業の都と呼ばれ、大英帝国第2の都市に成長する。
そのスコットランドの「国酒」がスコッチウイスキーである。1823年の酒税改定で蒸溜免許税や酒税が大幅に下がり、スコッチウイスキー業界が発展を始める。連載第10回「ブレンドこそ、スコッチの粋 グレーンウイスキー誕生 」で書いたように1826年と1830年の連続式蒸溜機の発明、生産された連続蒸溜グレーンと単式蒸溜モルトのブレンデッドの発明。連続式蒸溜機の圧倒的な生産能力を背景にしたブレンデッドの普及。そしてついに1880年代にはウイスキーの王座をアイルランドから奪取する。
ヨーロッパのワイン、そしてブランデーに甚大な被害を与えたフィロキセラ(ブドウ根アブラムシ)の被害が始まったのが1863年。1890年代まで続いたその被害が、ブレンデッドを生み出したスコッチウイスキーの普及に大きなチャンスを与えたのだ。同じ1863年に長州藩の5人の若者が密出国してロンドンにたどり着くのである。その後、薩摩藩からも同様に19人がロンドンに来る。
日本から来た若者たちがどのような日常生活を英国で送っていたか、詳細は分からないが、経済的には非常に苦しかったことは記録に残っている。彼らは自ら買い求めることはできなかったにしても、彼らが接したスコットランド人たちはウイスキーを飲んでおり、私の留学時代の経験からするとウイスキーが振る舞われたに違いない。産業革命をけん引していたスコットランドの国酒がスコッチウイスキーであったこと、スコッチウイスキーの発展期に将来、官界、政界、学会で活躍する若者が英国に留学していたことは、日本でのウイスキー造りに大きな影響を与えたに違いない。
ちなみに、現在も生き残っているスコッチブレンデッドのブランドを生み出したウイスキー業者(ブレンダーという)がいつ創業したかを調べると、日本からの留学がスコッチの発展期と一致していたことがよく分かる。
ブレンダーのごく一部だが、有名ブランドを例にあげると、世界No.1ブランド、ジョニー・ウォーカーを生んだジョン・ウォーカー&サンズの創業は1819年。1860年には彼のブレンドが世界中に輸出されていた。ジョージ・バランタインは1827年。ブレンドは1865年。ウイリアム・ティーチャーは1830年。ブレンドも同年。ジェームズ&ジョン・シーバスは1838年創業。ジョン・デュワーが1846年などとなっている。
前回「ジャパニーズウイスキー 複雑な樽熟成支える職人の技」は、「サントリーオールド」と当時おこなわれていた「13回転半の水割り」を紹介した。今回は、「サントリーローヤル」とそのCMを紹介したい。このCMは、ウイスキーCMの傑作といわれている。放映されたのは、1982~1984年であった。
ランボーCMのシリーズには、ほかに3人の仲間がいる。マーラー、ガウディ、ファーブルだ。どれも当時、非常に話題となったが、記憶されていらっしゃるだろうか。
マーラーは「大地の歌」、ガウディはバルセロナのグエル公園、ファーブルは南仏の風景をモチーフにしている。
ランボーCMは杉山恒太郎氏(プランナー)、高杉治郎氏(ディレクション)、長沢岳夫氏(コピー)、高崎勝二(撮影)、石岡暎子(衣装)の5氏が中心となってつくりあげたものであった。撮影は映画のロケ地としても知られた米国カリフォルニア州デスバレー。いつまでも耳に残る音楽はマーク・ゴールデンバーグの作曲。曲名はアルバム「鞄(かばん)を持った男」に収録されている「剣と女王」である。
「サントリーローヤル」は、創業60周年の記念ウイスキーで、サントリーの創業者鳥井信治郎がこん身の力をふるってつくり上げた傑作だ。1960年発売、信治郎は81歳であった。
そのユニークな瓶形は漢字の「酒」のつくりの部分、「酉(とり)」をかたどっている。この字は、十二支の10番目の「とり」にあたると同時に、酒の壺(つぼ)、酒器をも意味する。微妙なカーブを描く栓は、山崎蒸溜所の奥にある椎尾神社の鳥居にちなんだもの。
味わいはシェリー樽熟成原酒の特徴にあふれている。麦のうまみ(モルティー)と柿や梅酒、ミカン、リンゴ、レーズンにあるような果物系の甘酸っぱさが心地良い。料理を選ばない相性の良さを持つローヤルが、日本料理との相性もきわめて良いのは、その甘酸っぱさが由縁だと思っている。
飲み方は少し濃いめのハイボールをおススメする。
ウイスキーのCMが記憶の奥底から出てきて、あの不思議な曲芸師や道化師の一団が目の前を歩いていく。黒いマントを来た若者、ランボーも一緒に。その音楽とローヤルの豊潤なジューシーさに呼び覚まされたように、あの頃の日々の映像が頭の中でよみがえる。そして、不思議な時間が訪れる。
(サントリースピリッツ社専任シニアスペシャリスト=ウイスキー 三鍋昌春)
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