笑いも同じで、フリが立っていれば立っているほど、そしてオチとの落差(ギャップ)が大きいほど裏切り度合いが大きくなって意味が生まれる、つまり笑いになるのです。
たとえば、「鼻毛が出ている」をオチにするとします。もちろんこれだけでは笑いになりません。たとえば酔っ払いのおじさんの鼻毛が出ていたとしても、酔っぱらいのおじさんは鼻毛くらい出ていそうなので、フリに対してオチとしての裏切りがありません。一方、仕事でミスをして上司に怒られている。しかしよく見るとその上司、鼻毛が出ている。こうなれば、同じ「鼻毛が出ている」というオチでも、フリとボケとのギャップで笑いになるのです。
比較の上でしかものを言ってはいけない
フリオチを有効に使うと「オチ」がおかしなことじゃなくても笑いが生まれます。たとえばネット上で手軽に余命診断をして「あなたの余命はあと60年です。」と出たら、なんということはありません。方や、病院の一室で医者が神妙な面持ちで重い口が空けて「申し上げにくいのですが…」と言ったら、ここの「フリ」の部分で緊張がピークに達します。しかしそのあとに「あなたの余命はあと60年です。」と言ったらなんだか笑えてきますよね。
オチで笑えるために、「ちゃんとフリを立てるように」「コントでふつうの店員さんをしっかりと演じられるように」ということはお笑い養成所でさんざん言われました。「プロの人ほどフリを立たせるのが上手で、素人ほどただおかしなことをすればいいと思っている。プロと素人の一番の違いはそこにある」と言われたくらいです。
そこで気づいたのです。「フリとオチの差で笑いが生まれる。つまりそこの差に意味がある」とは、まさにマッキンゼーで教わった「『分析とは比較である』と同じではないか!」と。
情報を分析するにあたり、登場するのが“比較”です。マッキンゼーでは「イシューからはじめよ」の著者である安宅和人さんから「分析にこだわること。比較の上でしか物は言わないこと」を入社1年目にたたき込まれました。そして、比較した結果「差」があって初めて意味が生まれてきます。安宅さんが著書の中で「分析、また分析的な思考における『意味合い』は、『比べた結果、違いがあるかどうか』に尽きる」と書かれた通りです。
たとえば、「A社の今年の売り上げが大きい」と言いたいとき、A社の今年の売り上げを載せるだけではA社のすごさを伝えることはできません。競合他社であるB社の今年の売り上げや、A社の過去の売り上げと比べてそこに差があって初めて「A社の今年の売り上げがすごい」という「意味合い」が生まれます。
このように、「Xがすごい」ということを言うためには、Xを引き立たせるYが必要です。N=1、つまりデータ数1で物を断定することは政治家が言うことはあっても、分析的な思考が求められるコンサルティングの現場では、1つのデータはそれ以上の意味をなさないのです。