豊かな語彙は「翻訳」で身につける 齋藤孝流の鍛え方
齋藤孝先生の「大人の人間関係力」講座(3)
学生時代、「英文和訳」に苦労した人も多いだろう。実はその勉強は、英語力のみならず日本語力の向上にも一役買っていた。単語熟語を解釈し、文法の違いを乗り越え、意味の通る文章に再構成する作業は、語彙力や文脈力を鍛えるのに最適だ。『声に出して読みたい日本語』などを著した明治大学文学部の齋藤孝教授が「語彙力」について解説する。
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「文明開化」だ「殖産興業」だと社会が激変した明治維新の頃、実は日本語も大きな変革を遂げた。社会システムや産業技術、手本にすべき西欧列強の言語を翻訳する必要に迫られたからだ。
近代的な法体系の整備もその1つ。例えば、民法は主にフランス民法を手本とし、日本語に翻訳された。とはいえ語彙は足りないし、文法もまるで違う。そこで漢語を駆使して新しい日本語を大量に生み出し、かつ正確に訳せるよう独特の法律文体を編み出した。その苦心の跡は、今日の民法でも見ることができる。こうしたプロセスを経て、日本語は世界の英知を表現できる言語に成長していったわけだ。
夏目漱石が論理的に話す能力が高かったワケ
グッと卑近な話になるが、この成長を追体験することは、私たちの日本語力を鍛えることにもなる。平たく言えば「英文和訳」だ。単語を理解し、文の構造を把握し、前後の文脈から類推し、意味の通る日本文に書き換える。まさに日本語の語彙力と文脈力が試されるわけだ。
考えてみれば、近代日本を代表する作家の夏目漱石は英文学の専門家でもあった。軍医でありながら小説家でもある森鴎外はドイツ語が堪能で、「言文一致(話し言葉に近い口語体を用いて文章を書くこと)」の先駆者として知られる二葉亭四迷はロシア文学の翻訳も手がけている。若き日の福澤諭吉が、漢文と蘭学と英学を学んでいたことは有名だ。
諸氏に共通するのは、論理的な日本語を書いたり話したりする能力が極めて高かったこと。外国語を読み、日本語に再構成する作業の積み重ねが、それぞれの話し言葉や書き言葉を豊かにしたことは間違いない。
かく言う私も、受験生時代に難解な英文解釈に凝った時期がある。それによって得たのは、やはり日本語力が高まったという実感だ。講演やニュース番組でも、即座に話を組み立てることができるのは、英文と格闘した日々があったからだと思う。
受験英語の記憶が多少なりとも残っているなら、その能力を使わないのはもったいない。例えば、ネット上にあふれる英文サイトから、興味のある範囲で翻訳する習慣をつけてみてはいかがだろう。条件は、「意訳」ではなくできるだけ正確に訳すよう心がけること。情報も得られて日本語力も高まるとなれば、まさに一石二鳥だ。
「翻訳書の違和感」が語彙力につながる
「英文を見るのも嫌」という場合には、「翻訳書」を多く読むという手もある。そもそも英語は主語の後に結論である述語がくるので、難解なことを論理的に説明しやすいという特徴がある。一文が長くても、文の構造さえ分かれば意外に意味はスッと入ってくる。しかし、それを日本語に翻訳するとなると話は別だ。特に原文に忠実であるほど、読み慣れない日本語になりやすい。昨今の翻訳はずいぶん洗練されているので、さほど抵抗なく読めるかもしれない。とはいえ構造の違う言語を日本語に置き換えているわけだから、「普段読み書きしている日本語とは違う」と感じることはあるはずだ。
実はその違和感が、トレーニングになる。内容を正確に把握しようとすれば、その文の構造から分析していく必要があるが、それはほぼ「英文和訳」の作業に近い。脳に負荷がかかる分だけ、日本語力が鍛えられるわけだ。とりわけ専門書などは、より正確な翻訳が求められるため、とっつきにくい日本語になりやすい。最終的にはこういうものを読み込むことで、読解力のみならず日本語の表現力を高めることができるだろう。
ただし、かなり敷居が高いことも事実。翻訳書を読み慣れていない人は、まず海外ミステリーあたりでウオーミングアップしてはいかがだろう。ちなみに最近の私のオススメは、米国の作家ドン・ウィンズロウの『フランキー・マシーンの冬』や『犬の力』(いずれも角川文庫)など。東江一紀さんの翻訳は、原文に忠実でありながら日本語としても的確で小気味いい。その豊かな表現力に触れると、日本語の可能性を実感できるはずだ。
洋画の字幕スーパーで語彙力や読解力を鍛える
「本を読むのも嫌」なら、洋画を数多く見る手もある。ただし条件は、吹き替えではなく字幕スーパーで見ること。映像を見てセリフを聴き、限られた字数の字幕を読みながら登場人物の意図を理解する作業は、実はかなり高度だ。意識しながら鑑賞すれば、語彙力や文脈力が鍛えられるだろう。
しかも映画は、時間が過去にさかのぼったり未来に飛んだり、場面が急に切り替わったりすることがよくある。それらを把握してストーリーを追いかけるという意味では、読解力も試される。そういう観点で洋画を見るのも新鮮に感じるのではないだろうか。
1 「英文和訳」の習慣をつける
文法の違う言語を日本語に置き換える作業は、それだけで語彙力や文脈力、文章構成力が試される。学生時代の嫌な思い出を封印し、ネット上などの手近な英文を訳してみよう。「意訳」ではなく正確な翻訳を心がけるのがコツ。
2 「翻訳書」を読みまくる
翻訳書を読んで、読み慣れた日本語ではないという違和感が、トレーニングになる。最良のテキストは難解な専門書だが、海外ミステリーなどで感触をつかむのもいい。日本語の豊かさを知ることができる。
3 「洋画」を字幕で見まくる
読書が苦手は人は洋画を字幕スーパーで見よう。外国語のセリフを字幕で追いながら、登場人物の意図やストーリーを理解していく作業は、語彙力や読解力の向上につながる。
(まとめ 島田栄昭)
1960年静岡県生まれ。明治大学文学部教授。東京大学法学部卒業。東京大学大学院教育学研究科博士課程等を経て現職。専門は教育学、身体論、コミュニケーション論。2001年に出した『声に出して読みたい日本語』(草思社・毎日出版文化賞特別賞)がシリーズ260万部のベストセラーになり日本語ブームに。ビジネスに役立つ「人付き合いのコツ」が紹介されている『大人の人間関係力』(日経BP社)が好評発売中。
[齋藤孝著『大人の人間関係力』を再構成]
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