歌手・クミコさん 「好きなことをしろ」父に感謝
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は歌手のクミコさんだ。
――ご両親はかなりご高齢ですが、健在だそうですね。
「父と母は同い年で現在89歳。一人っ子の私をとても愛してくれていますし、私も仕事と両親のお世話を楽しく両立させています」
「父は私が物心ついたときから子どもの自主性を尊重してくれました。大学を卒業して歌手を志したときも反対しなかった。ひと言『好きなことをしろ』でした。そのころ親から言われたくないと思っていた3つの言葉がありました。『就職しろ』『結婚しろ』『孫の顔が見たい』です。一切言われませんでした」
――一般的な昭和一ケタの父親像と異なります。
「父は東京で製薬会社の製造設備を設計する技術者でした。理科系の人間です。でも技術職はどうやら本意ではなかった。父の父、つまり私の祖父は旧陸軍の軍人でした。戦争の過酷さを知っているだけに、息子を戦地に送るのをためらったのでしょう。技術者になれば兵役を逃れられると考え、そういう進路をたどらせたと聞いています」
「父は学生時代、絵を描いたり読書したりするのが好きな文系タイプだったとか。自分の人生を自分で決めることができないという経験を娘にさせたくないと思ったのです。感謝しかありません」
――作詞家の松本隆さんと出会い、「わが麗しき恋物語」がヒット。その後、紅白歌合戦に出場するなど仕事は順風満帆です。
「私は30年前、結婚に失敗しました。離婚して家に帰ると父は満面の笑み。理由を聞くと結婚式の時、別れた夫の父親にへりくだってお酒をついだのが屈辱的で、それが忘れられず巡り巡って彼のことをずっと気に入っていなかったそうです。『わが麗しき恋物語』にこんな歌詞があります。『人生って何て 奇妙で 意味が不明なの 愚かなものなの』。私たち親子にも当てはまりますね」
――娘を思う父の心情は深く、一筋縄ではいかないよううです。
「2011年の東日本大震災で私は宮城県の石巻市民会館で揺れに遭い、押し寄せる津波から会館近くの裏山に命からがら避難しました。その際、友人経由で無事を伝えましたが、両親は比較的冷静だったと友人から聞きました」
「ところが2年前、私がロシアに長期滞在することになった時のことです。私の仕事に一切口出ししてこなかった父が寂しそうに『遠い所に行ってほしくない』と言いました。父の加齢を初めて自覚しました」
――人はだれでも衰えていきます。
「母は転びやすくなり、父も体力が低下しています。私は親の世話を通じて人がどのように老いていくのかを目の当たりにしています。今まで私を愛してくれた分、両親を愛していこうと思います」
[日本経済新聞夕刊2018年5月15日付]
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