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握りずし 始まりは江戸っ子のホットドッグスタンド30の発明から読む日本史(4)握り寿司=文政年間(1818~1830年)

鮒ずし 滋賀県の郷土料理で、琵琶湖でとれるニゴロブナを使って作られる。独特の香りで有名な「なれずし」の一種

千年以上の歴史を持ち、日本の寿司の原型とされているのが、滋賀県の伝統食「鮒(ふな)ずし」です。中国由来のすしを日本では「なれずし」と呼んでおり、鮒ずしはなれずしに近いものと考えられています。

古代においてなれずしは、朝廷への貢ぎ物でした。日本の歴史上初めて「鮨・鮓」という文字が登場したのは、養老2(718)年に制定された「養老律令」です。租税を定めた中に、「アワビスシ、イガイスシ、ザツノスシ」と記されています。当時のすしは朝廷に納める税とされていました。

それ以前は、いつからどのように鮨や鮓が日本で広がったのかはわかっていません。さらに、この鮨や鮓が具体的にどんな食べ物だったのかも不明ですが、おそらくはなれずしだったのではないかと考えられています。

平安時代に入ると、西日本や東海の各地からもアユ、フナ、サケ、アワビ、イガイなどで作られたなれずしを、税として納めるように命じています。

都に集められたすしは貴族たちの間で分配され、庶民の口には入りませんでした。

室町時代になると、なれずしのように長期間漬け込むのではなく、飯に酸味が出るか出ないうちに食べる「生なれずし」が登場しました。生なれずしは、魚などはまだ生々しいものの、シャリ(米)も食べられます。

飯そのものも楽しまれるようになると、漬け込む材料も魚貝以外に、野菜や山菜など、さまざまなものが使われるようになってきました。つまり、魚以外のネタのバリエーションはこのころからあったのです。

戦国時代の公家で、重要史料として知られる「言継卿記(ことつぐきょうき)」を書き残した山科(やましな)言継は、天文23(1554)年11月27日の条に、以下のように記しています。「禁裏へ栗一蓋、土長鮓一折被進上」。これは、朝廷に栗を一蓋と、ドジョウのすし一折を贈ったという内容です。戦国末期の朝廷では、ドジョウのすしを食していたことを示す記述として注目に値します。

握り寿司が食べられたのは江戸だけ

江戸時代に入って、米酢が普及するようになると、手っ取り早く酢を振りかけて酸味を作り出せるようになりました。これが「早ずし」です。

早いとはいっても、重しをして味をなじませるのには数時間、あるいは一夜は必要でした。それも待てない、もっと早く食べたいという願いに応えて登場したのが「握り寿司」です。

握り寿司とは、寿司飯にネタを乗せて軽く握った物を指します。起源は諸説ありますが、もっともよく知られているのは、江戸時代後期の文政年間(1818~1830年)に、江戸・両国の「華屋」初代の小泉輿兵衛(こいずみよへえ)が考案したという説です。

輿兵衛は、それまで寿司の主流だった押し寿司を握り寿司として、素早く、食べやすくして客に提供したのです。忙しく、せっかちな江戸っ子に大当たりしたというわけです。

文政年間の寿司屋は、アメリカの映画によく出てくるホットドッグスタンドのような屋台でした。

客は、食事の合間のちょっとした小腹を満たすために、握り寿司を2、3貫頬張るという、現在のファストフードをイメージすればわかりやすいでしょう。

輿兵衛が考案したといわれる握り寿司は今よりもずっと大きく、ひと口半かふた口で食べるのがやっとという大きさだったこともあって、1貫ずつ提供されていました。その後、食べやすいように2つか3つに切って提供されました。握り寿司が2貫ずつ提供されるのが一般的になったのは、飯の量が減って寿司が小さくなった第二次世界大戦後からといわれています。

握り寿司が誕生したころのネタは、エビのおぼろ(すりつぶしたもの)だと伝わっていますが、江戸時代のネタは3種類に分けられます。もっとも多く使われたのは煮物で、イカ、エビ、アナゴ、ハマグリなどが代表です。次は光り物として知られるコハダ、アジなどを酢に漬けたネタです。三番目が魚介類の刺身でした。

現代の握り寿司の中でも高い人気を誇るネタであるマグロは、かつては、まったく人気がありませんでした。江戸で寿司ネタとしてマグロが登場するのは、天保年間(1830~1844年)とされています。

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