しょうゆ、味噌から偶然誕生? 世界で愛される調味料
30の発明から読む日本史(3)しょうゆ=室町時代
醤油(しょうゆ)は、味噌から偶然生まれたという説がある。その後醤油は日本人の嗜好に合い、計画的に造られるようになっていく。醤油の普及によって、日本人の食生活は劇的に変わったといっても過言ではない。そのまま調味料として使う、あるいは醤油をベースとした調味料を使って料理を作るなど用途は数え切れないほど多く、和食の基本的な味つけには欠かせない。もとは関西で生まれた醤油が江戸近郊でも造られるようになり、世界中で愛されるようになった経緯を追ってみよう。シリーズ3回目は醤油を紹介する。
世界100カ国以上で愛される理由
和食に欠かすことができない醤油は、近年、アメリカのほとんどのスーパーマーケットに置かれるようになっています。ヨーロッパでも主要なスーパーマーケットで売られており、認知されています。
昭和48(1973)年、日本の企業がアメリカで醤油の醸造をはじめたのが、醤油の海外生産の嚆矢(こうし)です。その後、日本食が世界的なブームになったことで輸出量や海外での生産量が増え、今では、世界100カ国以上で醤油が使われています。
醤油は「旨(うま)味」「甘味」「酸味」「塩味」「苦味」の5つの味のバランスで風味を構成しています。それらは、大豆と小麦に含まれる成分が、醸造の過程でさまざまな味や香りの成分に変化し、さらに相互に作用して誕生したものです。
醤油の香り成分は、現在確認されているだけでも約300種類に上ります。代表的な成分はHEMFというフラノン化合物で、本醸造醤油のカラメルのような甘い香りの主成分です。
ほかに果物や花の香りの主成分であるエステルやカルボニル化合物群などが含まれています。さらにコーヒーやハム・ソーセージなどの香り成分である、フェノール化合物類なども含まれています。
つまり、果物・花・コーヒーなどの成分がバランスよく配合されているのが、醤油なのです。この香りが魚介類や肉類の生臭さを消すという働きをし、加熱すれば香ばしさを増します。
ただし、約300種類の香りといっても、特定の香りが目立ちすぎることはなく、全体に調和して独特の香りを醸し出しています。
味噌造りから生まれたたまり醤油
醤油の起源をたどると縄文時代に行きつきます。縄文晩期の遺跡から、「魚醤」らしきものが出土しています。魚醤とは、塩漬けにして発酵させた魚介類のことです。
塩を使って食べものを保存する技術は古代からあり、果物や野菜などを原料とする「草醤」や米や麦、大豆を原料とする「穀醤」があったことがわかっています。このうちの穀醤が醤油のルーツです。
仏教伝来のころ中国や朝鮮半島から醤の製法が伝わり、本格的に作られるようになったとされています。つまり、日本にも中国にも塩を使った発酵食品の製造技術があったというわけです。
ただし、当時の穀醤は液体ではなく、塩漬けにした大豆が発酵した状態と見られています。大宝元(701)年に成立した法典「大宝律令」によると、醤の製造過程の途中段階を「未醤」と呼んだようです。これが現在の味噌のルーツという説があります。大宝律令には醤を作る役所があったことも記載されており、国をあげて製造していたことは確かです。
平安中期に書かれた「宇津保物語」には「酢、醤、漬物皆同じごとしたり」と記されており、貴族たちの間で醤作りが定着していたことがうかがえます。
鎌倉時代に禅宗が普及し、精進料理が発達します。その際に「未醤=味噌」が煮物料理の調味料として多く使われるようになりました。この未醤が発達し、「垂れ味噌」が登場しました。
垂れ味噌とは、江戸時代初期の「料理物語」によれば「味噌一升に水三升五合を加え、三升になるまで煮詰め、袋に入れてつるし、垂れ出る液汁を集め」た液体調味料のことです。
一方、文明10(1478)年から元和4(1618)年まで、奈良・興福寺の塔頭(たっちゅう)・多聞院の僧らによって書き継がれた「多聞院日記」には、味噌や醤の製法が具体的に記録されています。「多聞院日記」は「唐味噌」の複数の製法が登場するなど、当時の味噌や醤がわかる貴重な史料です。
そのうちのひとつは、煮た大豆と炒って粉にした麦を混ぜて麹(こうじ)を作り、塩水を加えて仕込むという製法でした。これは江戸時代以降の醤油の醸造法と似ている点が注目されています。つまり、唐味噌が醤油の先駆けと見ることができます。
ただし、唐味噌の名が登場する天文19(1550)年には、文献に「シヤウユ」という名が使われています。あえて唐味噌と記したのか、唐味噌とシヤウユの関係はどうなのか、まだわかっていません。
現在残っている諸史料から推定されるのは、垂れ味噌が味噌の2次加工品で、醤油は原料処理の段階から醤油という調味料を作ることを目的とした1次加工品ということです。
あるいは、中国から径山寺味噌の造り方を日本に持って帰った僧の心地覚心が、建長6(1254)年、紀州湯浅の村人にその味噌の造り方を教えていたところ、味噌の元になるものからしみだす液体のおいしいことに気づき、現在のたまり醤油が誕生したともいわれています。
いずれにせよ、醤油は味噌造りの過程で偶然生まれたようです。
関西の「下り醤油」が江戸へ
安土桃山時代には物資の流通も活発になっており、醤油も庶民に徐々に普及していきました。
醤油の需要の拡大に対応すべく、16世紀後半から17世紀半ばにかけて、湯浅のほか龍野(現在の兵庫県)、銚子・野田(現在の千葉県)などで醤油の醸造がはじまりました。
江戸時代初期は、醤油の産地はおもに上方でした。とくに堺で造られていた「醤油溜」の評判が高く、元禄期には名産品として諸国に流通していました。
17世紀から18世紀にかけては、大坂、ついで江戸が大消費地として成長していきました。すでに、菱垣廻船や樽廻船(たるかいせん)といった定期船が大坂と江戸を結んでいたことから、上方の醤油も江戸に運ばれ、「下り醤油」として高い人気を誇っていました。
当時は醤油だけではなく、上方から江戸に下ってくる「下りもの」は高級品で、江戸周辺で造られたものは「下らない」もの、つまり下級品とみなされていました。
18世紀半ばすぎの京都や大坂では他藩産の醤油が入ってくるようになり、醤油醸造業は衰退していきます。
以後、上方の醤油市場は龍野を中心として、湯浅や小豆島の醸造業者が市場の支持を得ていきました。
寛文6(1666)年、それまでの醤油とは違う「淡口醤油」が龍野で誕生します。藩主の脇坂安政がこの増産に力を入れた結果、龍野の醤油は淡口醤油に切り替わりました。
やがてこの醤油は、京都の懐石料理や精進料理などで使われるようになっていきます。江戸時代後期に藩主の脇坂安宅が京都所司代となり、京都や大坂での販路拡大に尽力。その結果、現在のように関西を中心とした淡口食文化圏が形成されました。
「濃口醤油」が江戸の市場を席巻
18世紀半ばになると、江戸では下り醤油の消費量が減り、代わりに江戸近郊で醸造された「濃口醤油」が爆発的に売れていきました。理由としては、利根川や江戸川の水運の発達による地の利と、霞ケ浦周辺の大豆や筑波の小麦など質の良い原料が入手しやすかったことが挙げられます。
こうした関東地廻り醤油の産地は銚子、野田、土浦などでした。とくに銚子では宝暦4(1754)年、野田では天明元(1781)年にそれぞれ造醤油仲間が結成され、以後生産量を着実に増やしていきます。
新鮮な江戸前の魚介類の調理には濃口醤油がよく合ったことから、握り寿司のつけ醤油として江戸の人々の支持を得たのでしょう。濃口醤油の出現により「蕎麦つゆ」「鰻(うなぎ)の蒲焼(かばやき)のタレ」など、現在でもおなじみの調味料が完成します。
ただし世間的な評価では、依然、下り醤油が名声を保っており、地廻り醤油は下に見られる傾向が続いてました。
江戸時代末期の元治元(1864)年、地廻り醤油が下り醤油の評価を上回る出来事が起こりました。幕府が諸商人に対し、現行の3~4割もの価格引き下げを厳命したのです。
銚子と野田の業者が「醤油は品質を落としたり、量をごまかしたりできない。値段を下げればつぶれてしまう」と幕府に懇願しました。すると幕府は、「次のものは"最上醤油"として、値下げをするにおよばず」と、現行価格での販売を許可しました。
価格据え置きを許されたのは、わずかに銚子の4銘柄と野田の3銘柄だけでした。「上方が極上なら、関東はその上の最上」は銚子と野田の業者にとって最大の宣伝文句になり、以後は関東の醤油が全国の市場を席巻していきます。
ヨーロッパで評価された極東の調味料
江戸時代には、長崎から醤油が輸出されていました。オランダ船と中国船によって長崎から運ばれた醤油は、おもに中国大陸や東南アジア、インドやスリランカなどで使われました。さらに一部はオランダ本国まで運ばれ、極東の調味料として珍重されました。
日本の醤油がヨーロッパでも高い評価を得ていたことは、文献で確認できます。安永4(1775)年から1年ほど長崎の出島で暮らしたスウェーデンの医師・植物学者のツンベルクが記した「ツンベルク日本紀行」には、次のように書かれています。
「(日本人は)非常に上質の醤油を造る。これはシナの醤油に比してはるかに上質である。多量の醤油がバタビア、印度、および欧羅巴に運ばれる」。当時の世界と比較しても、日本の醤油の風味はすぐれていました。
明治以降、現在にいたるまで各地の醤油は料理とともに定着しました。
赤身の魚の多い東日本では、魚の臭みを消すために香りの高い濃口醤油が使われます。一方、出汁(だし)で素材を煮たあと、仕上げに醤油を加える調理法が主流の関西では、薄口醤油が使われます。古来、中国や韓国との長い交流の歴史をもつ九州では、甘味の強い醤油が好まれています。
日本国内でも地域によって嗜好が異なることを背景として、各地でさまざまな醤油が醸造されています。料理によって醤油を使い分けたり、醤油をベースにした新しい調味料を開発したりと、日本人はこれからも醤油を活用し続けていくでしょう。
江戸時代の産地が醤油メーカーに
明治・大正時代に、かつて醤油の名産地だった場所で日本を代表する醤油メーカーが誕生しています。
野田の醤油造りを受け継いだのは、現在のキッコーマン食品です。
ほかにも、銚子の醤油造りを受け継いだヤマサ醤油、龍野の醤油造りを受け継いだヒガシマル醤油、小豆島の醤油造りを受け継いだマルキン醤油などがあります。
湯浅にも明治14(1881)年に丸新本家が誕生しましたが、一時醤油造りをやめてしまいました。現在は新会社を立ち上げて醤油造りをしています。
このほかにも、全国の醤油造りの産地で醤油メーカーが誕生しています。
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