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JR東京駅の丸の内駅前広場に立つ「鉄道の父」井上勝の銅像

JR東京駅の丸の内駅前広場に立つ「鉄道の父」井上勝の銅像

幕末の1863年に英国留学を始めた「長州ファイブ」は翌64年、自藩の危機に対して急ぎ帰国した伊藤博文、井上馨と留学を続ける3人と2グループに分かれた。残留組はその後、明治の近代化を各分野でリードしていったが、その中のひとりが、鉄道庁長官を務め「鉄道の父」と呼ばれる井上勝(1843~1910年)だ。「明治の技術官僚」(中公新書)の著者である関西大の柏原宏紀准教授は「井上ほど『現場の論理』を主張した官僚も珍しい」と指摘する。出世を支えたのは官僚としての行政能力というより、徹底した現場主義だった。

英留学、帰国断り技術を吸収

残留組でも遠藤謹助(1836~93年、造幣局長)は体調を崩して途中帰国し、最後まで留学を続けたのは井上勝と山尾庸三(1837~1917年、工部卿)だった。山尾は分析化学に続いて土木工学を、井上は地質鉱物学から数理物理学を受講したという。井上は、さらに鉱山や鉄道の現場にも学んだ。木戸孝允からの帰国の指示をいったんは断って留学を延長し、最先端の理系の知識と現場の技術を吸収した。日本に戻ったのは68年だ。

伊藤や井上馨のように王政復古や戊辰戦争といった華々しい舞台で功績を挙げることはできなかった。柏原氏は「帰国時期が遅れたことは政治的にはマイナスだったが、外国人技術者並みの専門性が新政府での地位を押し上げた」とみる。井上や山尾の能力は伝統的な公家階級にも知れ渡っていたという。

井上の場合は性格的にも政治から縁遠かった。長州藩の比較的裕福な藩士の出身で、早い時期から西洋文明や新技術への好奇心が強かった。幕府の洋学研究・教育機関で航海術などを学習したりした。長州藩が排外的な攘夷論に突き進み、伊藤らが過激な行動にのめり込んだ時期にも、これに加わった形跡はなく、英国の副領事のもとに通ったり横浜居留地に出向いたりして英語の習得に努力していたようだ。同じ長州ファイブでも農民・足軽の出身で出世欲と上昇志向が強かった伊藤とは正反対のキャラクターだ。

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