最初の顧客は伊藤博文 明治元年からスーツづくり
神戸・元町の柴田音吉洋服店(上)
2018年は明治維新から150年。日本の西洋化の流れは、明治時代に入って市民の日常生活にも急速に浸透していった。そのひとつがスーツ。1868年(明治元年)の起業以来、柴田音吉洋服店(神戸市)は5代にわたり、神戸市の繁華街、元町でビスポーク(ハンドメード)で背広を作り続けている。現社長の5代目柴田音吉氏に日本のスーツの歴史と今後について聞いた。
後編「150年存続の秘訣『スモール・イズ・ビューティフル』」もお読みください。
――神戸市は「開国か攘夷(じょうい)か」で日本中が揺れ動いていた1868年(慶応4年)に開港しました。
「初代柴田音吉は16歳のときに神戸に赴き、英国人のカペル氏が居留地に開いた洋服店、カペル商会(1869年=明治2年=開業)の一番弟子になりました。カペル商会は日本で最も早く開業したテーラーのひとつでしょう。音吉にはもともと和服縫製の技術があったようです」
■丁稚ではなく、パートナー
「弟子入りに先んじて1868年、音吉本人も小さいながら自身の工房を開いています。カペル商会では『丁稚(でっち)』の待遇ではなく、パートナーのような扱いだったようです。カペル氏に連れられ、開業したばかりのオリエンタルホテル(1870年開業の日本最古級の西洋式ホテル)の洋食に行ったりもしています。音吉は近江商人の家で生まれ兵庫の庄屋の養子になったので、それなりの資産もあったのでしょう」
――初代兵庫県知事は後の初代首相、伊藤博文でした。音吉にとって最初の顧客のひとりです。伊藤は幕末に英国留学した開国派で、明治政府でも西洋化への強力な旗振り役でした。
「伊藤のために作ったフロックコートが一着残っています。1995年の阪神大震災で店舗は倒壊しましたが、鉄筋レンガ造りの倉庫で保管しておいたので無事でした」
■伊藤博文、新しもの好き音吉に目をかける
――コートを見ると伊藤の背丈は150~160センチメートルに思えます。
「約150年を経てコート地はある程度縮んでいます。このため正確な身長は分かりません。生地はドスキンです。牝鹿の皮に似せて作られた英国産の厚地紡毛織物で、目の詰んだビロードのような光沢があるフォーマル用の生地です」
――神戸市に「日本近代洋服発祥の地」という碑があるのも、布地を輸入していた貿易港だからですね。伊藤はどうして音吉に目をかけたのでしょうか。
「音吉は溌剌(はつらつ)として機転が利き、新奇なものを好む少年だったようです。炭火式のアイロンを取り入れたり、晩年は世界一周旅行へ出かけたりして、新しもの好きは生涯変わりませんでした。伊藤博文はそんな点が気に入ったのでしょう。後に明治天皇の礼服をあつらえるために東京へ連れて行ったりしています」
――1871年(明治4年)に洋服の着用を促す「服制変革の内勅」、72年に「大礼服通常礼服の制定」の布告と、洋服に対する改革が矢継ぎ早に行われました。直衣中心だった明治天皇も、軍服から礼服、日常服へと洋装化していきます。
■目測で明治帝のサイズを測る
「明治天皇の身体に触れて直接採寸するのはおそれ多いので遠くから目測でサイズを測ったというエピソードが伝わっています。採寸のポイントなるのは肩幅で、日本人は大体22~25センチです。だから立ち姿を見ただけでも作れないことはない。しかし実際は侍従の方らにお召し物を借りて参考にしたと思います(笑)」
――1883年(明治16年)に現在まで続く柴田音吉洋服店を設立しました。
「神戸・元町に3階建ての洋館を構え、1階が店舗、2階が応接間、3階を縫製工場にしました。店内にはシャンデリアやヨーロッパ王朝風のテーブルや椅子を備えました。3階の工房も机、椅子での作業で、当時としては珍しかったようです」
――現代の目から見て、初代音吉のスーツ作りの特徴はどこにありますか。
「カペル氏の下で修行したのですが英国風のピタッとした基本から、若干ゆったりめに作っています。着物から洋服へ移行する時代に、一般人も違和感がないように配慮したのでしょう。その作風は現代の当店でも取り入れています」
(聞き手は松本治人)
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