『1984』での挑戦 役作りに終わりなし(井上芳雄)
第20回
井上芳雄です。4月12日から新国立劇場小劇場(東京・渋谷)で『1984』という舞台に出ています。英国の作家ジョージ・オーウェルが1948年に書いた小説を、ロバート・アイクとダンカン・マクミランの2人が新たな視点で2013年に戯曲化した作品です。全体主義の国家によって思想や言論、行動などのすべてが監視、統制されている社会で生きる人々を描いています。演出家の小川絵梨子さんと組むのは初めてで、台本の読み方や表現の仕方に新しい試みがたくさんあります。
僕が演じる主人公のウィンストンは、真実省で日々歴史記録の改ざん作業をしている役人です。市民は街頭のテレスクリーンを通して、独裁者ビッグブラザーに24時間監視されており、ものを考えたり書いたりする行為は「思考犯罪」として逮捕される。そんな体制に不信感を抱いたウィンストンは、日記を書くことで反抗しようとしますが、その結果、101号室という独房に入れられ、残酷な拷問を受けることになります。
物語はちょっと複雑な構造になっていて、幕が開くと、2050年以降の世界に生きる人たちが『1984』に書かれた時代を振り返っている場面から始まり、やがて彼らは小説の世界に入っていきます。ウィンストンの記憶も混濁していて、未来になったり、1984年になったりを繰り返します。演じていても、自分が何者で、どんな状況に置かれているのかが最初はよく分からず、戸惑いの多い設定やストーリーでした。
演出の小川さんも、稽古が始まる前に「分からないところが多すぎる」と言っていました。それで最初は、俳優同士で『1984』の世界が本当に幸せなのかを討議する模擬裁判のようなゲームをしたりして、台本の読み解きから稽古が始まりました。
小川さんは米国で演劇の勉強をされてきた方で、ニューヨークのアクターズ・スタジオ大学院演出部を卒業されています。「日本の俳優さんは大変だと思います」と言われてました。欧米の俳優はアクターズ・スタジオの演技スタイルが共通言語のようになっているけれど、日本はいろいろな演劇や表現の形態があり、演出家によってもメソッドが違う。俳優は系統立てて演技を勉強しているわけではないので、異なる演技スタイルの俳優同士が同じ舞台で芝居をすることになって大変でしょうと。
僕の場合も、ミュージカルから俳優を始めたので、今回のようなセリフだけのストレートプレイに出るのは、今でも戸惑いがあります。演技も、そのつど現場のやり方にあわせてきました。セリフだけは覚えて、まっさらな状態で稽古場に行く、という感じです。
今回も同じように臨んだところ、小川さんは稽古を止めて、「何を思って、そう動いていますか」「ウィンストンは、どれくらいここで働いていますか」と役の心理やバックグラウンドを聞いてきました。小川さんのやり方は、役者はある程度、役についての準備をして稽古場に来る。そして稽古で、相手の役者と対峙することで、本当に生きるようになる、そこにちゃんと存在するようになる、というものでした。
僕は「困ったな」と思い、「役者だけをやってきたわけでも、演技をきちんと学んできたわけでもないので、お芝居のつくり方や台本をどう読んできたらいいか、実はよく分からないんです」と正直に言いました。すると、小川さんが学んだ欧米の演技メソッドの話になり、「台本をどう読むか、話し合いましょう」と何時間も一緒に考えてくれました。
小川さんは、演技を押しつけたり決めつけたりはしません。基本的に役者から出たものに対して、「それいいね」とか「もうちょっとこうじゃない」と言います。そこはデヴィッド・ルヴォーと一緒で、欧米のやり方です。提案するときも「絶対にやれというわけじゃないんだけど」「今がダメというわけじゃないんだけど」と決めつけない言い方をされて、その中から僕が何を取り入れるのかを話し合います。
そうやって稽古が進んでいき、僕は精神的にも肉体的にもどんどん追い込まれて、とても苦しい日々でした。稽古を途中で止められて「もう1回話し合いましょう」となるのが繰り返されると、周りに申し訳ないし、自分も不安でいっぱいでした。小川さんはあきらめない演出家です。自分が求める方向に向かうエネルギーがすごく伝わってきます。
■自分なりの演技の譜面を作る
そんななか、自分はどうしてこれまで演技の準備ができていなかったのだろうと考えたときに、ミュージカルとストレートプレイの違いに気づいたのです。ミュージカルの曲には譜面があります。初めての曲を歌うときは、譜面を読んでメロディーを自分の中に入れておき、そのうえで歌詞をどう表現するか、というのがミュージカルの稽古でした。
でも、お芝居には譜面がない。だから自分で作らないといけなかったのです。自分なりのメロディー、つまり演技の流れを考えて、稽古場でやってみて、そのうえで修正していけばいいんだ。そこに気づいてから、この出来事に出会い、この感情が芽生えたから次の場面につながるんだ、いや、ここはまだよく分かってないな、といった自分なりの演技の譜面を作る作業を積み重ねていきました。
それで最後の通し稽古のときになって、初めて途中で止められずに、最後まで到達しました。小川さんからは「役が通りましたね」と言われました。初めて演技を認めてもらえたと思えてうれしかったし、自分は新しいチャレンジをしているのだと感じました。
だから『1984』のお芝居は、これまでと演技の組み立て方も違うし、意識も違っています。メソッドがしっかりある中でやれている実感があるのが、今回の作品です。
演技を見直す作業は、開幕してからも続いてます。「次は自分で意識しなくても感情が勝手に湧き出るくらいまで、役の人をよく知ってほしい」とも言われています。役作りに終わりはない。俳優という仕事にあらためてしっかり向き合っている毎日です。
1979年7月6日生まれ。福岡県出身。東京藝術大学音楽学部声楽科卒業。大学在学中の2000年に、ミュージカル『エリザベート』の皇太子ルドルフ役でデビュー。以降、ミュージカル、ストレートプレイの舞台を中心に活躍。CD制作、コンサートなどの音楽活動にも取り組む一方、テレビ、映画など映像にも活動の幅を広げている。著書に『ミュージカル俳優という仕事』(日経BP社)。
「井上芳雄 エンタメ通信」は毎月第1、第3土曜に掲載。第21回は5月5日(土)の予定です。
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