「自由に生きる」父に学ぶ 噺家、俳優・藤木勇人さん
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は噺家・俳優の藤木勇人さんだ。
――ご両親は奄美大島(鹿児島県)出身だそうですね。
「父親は西郷隆盛が暮らした龍郷町。母親は名瀬市(現奄美市)の生まれです。父も西郷さんと同様に左遷された士族の流れをくんでいるらしい。父は戦後すぐに奄美から沖縄に渡り、米軍相手にいろんな商売をしていました」
――奄美から沖縄に行った人は多かったようですね。
「父が移り住んだコザ(現沖縄市)の街には画廊や映画館、家具や食器の店であふれ、米兵が買ってくれた。基地建設の景気でにぎわい、基地バブルを当てにして出稼ぎが多かったんですね」
――お母さんも一緒に?
「いや、父は単身で沖縄に渡り、親に言われてお見合いをするために奄美に一旦戻るんです。父はその気はなかったようですが、うちの母は美人なんですよ。それで一目ぼれして、沖縄に母を連れて帰って一緒になったようです」
――藤木さんもコザで暮らしていたんですか。
「ええ。男2人、女2人の4人兄弟で僕は次男。みなコザの生まれです。父は米兵相手の家具店を始めて、組み立て式ベッドが大当たりした。その後はバーを母と一緒にやっていました。家は繁華街のど真ん中。呼び込みとケンカの声とパトカーの音が途切れない。祖父が亡くなって奄美に行った時、静か過ぎて眠れなかったのを覚えています」
「ベトナム戦争で米兵相手の商売はさらに潤い、父は仕事もせずに寝ているか、釣りや狩りに行くような生活をしていました。ただ、兄弟4人とも中学、高校は九州の学校に通わせてもらい、家にはお手伝いさんがいました。両親は店が終わった夜中に帰宅して、僕らを起こすんです。ハンバーガーを持ってね」
――裕福だったんですね。
「いや、結局父親は3千万円以上の借金を僕らに残して亡くなるんですよ。ベトナム戦争が終わって景気が悪くなり、ふるさとの大島紬(つむぎ)を始めました。母が織って父が売る。しかし、うまくいかなかった。現在83歳になる母はその後ろめたさからか、僕らには頼らず那覇に一人で暮らしています」
――お父さんを恨んでいますか。
「それはないですね。愛情は深く自由な人でしたから。僕が最初に郵便局に就職した時、『公務員の人生は先が見えてるぞ。おまえはそれで不満はないのか』と言われました。その言葉は、芸能の道に進む後押しになりました」
「沖縄の報道写真家、石川文洋さんのベトナム戦争の写真を見て、恩恵を受けた戦争の実態を知りました。その矛盾を意識しながら自由な笑いを追求しています。自由な表現に憧れるのも父の影響かもしれません。商売面では反面教師にしながらも、自由奔放に生きる姿勢は3人の子供たちに伝えていきたいですね」
[日本経済新聞夕刊2018年4月17日付]
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